表記の簡略化について
2006年06月20日 21:43
ピクトグラムや情報デザインの分野では、認知しやすいグラフィックをつくるために様々な工夫が重ねられてきています。これと同列に扱って良いかどうかはともかく、記号の簡略化という手法において、現代の常用漢字とか中国の簡体字も、同じく認知しやすい文字を考案する作業の一つと考えてよいかと思います。そうした考案は、母国語の場合だと識字率を上げる(ハードルの方を低くして達成できるのだとしても)ことに貢献するのだし、最低限のスキルで多くの人が情報を獲得できるという点で、語義に照らすと問題はあるにしても、ひとまず肯定的に扱ってもよいでしょう。
リテラシーの向上を優先して、書字ないし表記方法を変えようとする提案は、何も漢字文化圏だけの話ではありません。一例として、The Simplified Spelling Society という団体のサイトを見てみると、PDF ファイルで公開されている資料には、次のように説明があります。
Why English Spelling should be updated
[なぜ英語の綴りを改定しなくてはならないのでしょう?]
- A quarter of English-speaking children cannot read properly by age 11
- [英語を話す子供達の 1/4 は、11 歳になるまで正しく文章を読めません]
- Around 7 million adults in the UK and 40 million in the US are functionally illiterate
- [イギリスの約 700 万人の成人と、アメリカの約 4,000 万人の成人は、実用的な読み書きができません]
- Nearly half of all English speakers have spelling problems
- [英語を話す人のおおよそ半分は、綴り方に問題があります]
そうして、イタリア語やスペイン語、それからドイツ語などに比べて英語は綴りと発音の規則性に例外がありすぎるため、修得に余計な負担と時間がかかることを挙げています。もちろん日本語と同じく、英語もさまざまな言語を起源にもつ複雑な言語であって、少し英語を勉強すれば、文法・用法の点でも綴りの点でも歴史的な経緯を抱えたかなり複雑な言語であることくらい、大学生でも分かることです。以前から疑問視されてはいますが、「日本語は英語よりも複雑なので論理的思考がどうのこうの」といった茶飲み話は、実は言語としての日本語、そして言語としての英語の両方を、殆ど学んでいない人のいい加減な実感で語られていたりするので、要注意です。この The Simplified Spelling Society の人たちが多くの機会に強調しているのは、「英語は言語としての論理性に欠けている」という主張なのです(「ここ 1,000 年のあいだ全く進化してこなかった」という人さえいます)。
ともかく、発音しない h (hour) や k (knee, knowledge) とか、英米で違う綴り(centre, center) とか、同じ綴り方なのに発音が違う部分(here, there, were)とかいった例外がたくさんあるので、これらを一定の原則に沿って合理化したいというのが、彼らの趣旨です。その一例として、H. G. ウェールズの The Star からの引用をご紹介してみましょう。
It woz on the ferst dae ov the nue yeer that the anounsment woz maed, aulmoest simultaeneusli from three obzervatoris, that the moeshen ov the planet Neptune, the outermoest ov aul the planets that w(h)eel about the sun, had bekum veri eratik. A retardaeshen in its velositi had been suspected in Desember. Then a faent, remoet spek ov lyt woz diskuverd in the reejen ov the perterbd planet. At ferst this did not kauz eni veri graet eksytment. Syentifik peepl, houever, found the intelijens remarkabl enuf, eeven befor it bekaem noen that the nue bodi woz rapidli groeing larjer and bryter, and that its moeshen woz kwyt diferent from the orderli proegres ov the planets.
“was” が “woz”、”enough” が “enuf” など、初めて見ると面食らってしまう文章ですね。エスペラントで書かれた文章を初めて見たときの、何かしらあまりにも人工的な印象は拭えないのですが、所 詮そんなものは習慣として身に付いてしまえばどうでもよくなるのかもしれません。まぁ、その「どうでもよくなったこと」を、大声で「文化」とか「風土」な どと言っている人たちもたくさんいますし。また、いま述べた事例に限らず、英語と比べて表記と発音の間に例外が少ないと思われるドイツ語でも、1996年 7月に制定された Die neue Rechtsschreibung(新正書法)では、発音と綴りの乖離を防ぐことが一つの目的として掲げられていました。かようにして、表意文字であるか表音文字であるかを問わず、色々な国で表記の簡略化や合理化が提案されたり実行されていると言ってよいでしょう。
では日本の事例を取り上げてみましょう。表記の合理化ないし簡略化の一例として、語尾の長音を省く傾向がよく見られます。「コンピュータ」「ユーザ」「プログラマ」「リテラシ」「エラ」など(最後は冗談)。この現象について、Wikipedia のユーザーさんたちが書き込んでいるコメントを見てみると、各専門分野での慣用を優先するといった趣旨の意見が多く見られますね。なるほど慣用というか、 それぞれ使っている人の受け取り方も尊重するということでしょうか。僕がどういう専門分野に属しているのか、あまり自覚はありませんが、「メモリ」と書かれると記憶装置あるいは「目盛り」の昭和初期風の言い回しを連想するし、「メモリー」と書かれると松崎しげるを連想するといったことなのでしょう(違)。 また、情報処理技術の分野で文章を書く人たちにとっては、JIS で省略しなければならないという制約があって、嫌でも何でも省略して書かざるををえないという実情があるようです。何も全てのシスアドさんが自分の好みで 「エレベータ」「サーバ」などと書いているわけではないのでしょう。
こういった表記の変更という話題は、必ずしも良い悪いで決着がつくわけではないため、国やしかるべき機関がルールとして定める場合には、幾つかの目標からどれを優先するかという功利的判断で決着がつくのでしょう。しかし、ひとたび変更されて多くの人が修得してしまうと、それこそ良い悪いは抜きにしてデファクト・スタンダードになってしまうため、簡単にそこへ変えられなかったのと同じく、再び元へ戻したり他のやりかたに変更するのも難しいと言えます。
