最終更新日: 2008年08月29日

黄金比という参照枠 (rev. 1.2)

2007年11月29日 01:42

いつも不思議なのですが、プロの工業デザイナーや一般のデザインフリークが「ほら、この均整のとれた形を見てご覧なさい。これも実は黄金比になっているのです!」などと言っているのは、実際のところスピリチュアルとか水からの伝言とか細木数子とか、その種のオカルトなんじゃないかと思うのですが、どうなんでしょうか。

※ (rev.1.1) 三井秀樹さんの論説を取り上げた段落を 11/11 に追加しました。

※ (rev.1.2) ぐるぐる回ってるあたりのコメントについて追加しました。

では、まず黄金比がどのような比率なのかを Wikipedia でご覧いただければお分かりのように、線分を a, b の長さで二つに分割するとき、a : b = b : (a + b) が成り立つように分割したときの比 a : b のこととなります。そして、確かに数式として他にも「美しい」表し方が幾つかあると紹介されており、よくは分からないが美しい形には何か数学的な理由がありそうだ、という偏見が植え付けられます。なぜこれが偏見なのかと言うと、単純明快なことですが、バランスが悪く見える形であっても、バランスの良い形と同様、数学的に表現できるのは当然だからです。簡単な反例を挙げると、1 : √3 は数式としては非常に単純で美しいと言えますが、これを縦横の比率にしてノートや名刺を作っても美しくないかもしれません(1 : √2 だと既に「白銀比」という呼称があるそうな)。一般に、というか数学以前の話ですが、比率が美しくない形であっても長さを測れる限り「 1 : x 」の比にできるのは当たり前であって、小学生でもやれる作業です。数式として表現されているから何か意味があると考えてしまうのは、深層水やイオン水という学名のような呼称がつけられているから効能がある(果ては水が悲しんだり喜んだりする)と考えてしまうのと同様、オカルトだと言わざるを得ません。

黄金比の図

「~比」などという言葉で語られると、逆に「バランスの悪い形は数学的に合理的な比率で表現できないのだろう」、などと何の根拠もなく考えてしまいがちです。黄金比を使ったからどうとかいった説明は、こうした一般人(あるいは一部の工業デザイナー)の数学コンプレックスに根ざした詭弁と言えるかもしれません。実際に黄金比を使ってデザインされた工業製品は、どれをとっても「その比率でなければ美しくない」と言いうる数学的根拠など誰も示せるわけがありませんし、感性の問題としてみても、iPod やタバコの箱がどれほど黄金比でデザインされていると言われても、それだけで工業デザインとして優れている根拠にはなりません。長辺が 5mm や 1cm 違っていても、黄金比などという怪しげな枠組みを持ち出さない限り誰も文句を言わない筈です。もし絶対音感ならぬ「絶対比率感」みたいなものがあって、長辺の長さが 5mm でも黄金比からズレると気持ち悪いという人がいるなら別ですが。

ここで、黄金比を真正なる美の基準として擁護したい人であれば、「いやいや、現に黄金比から数ミリメートルほどズレていたがために、消費者の違和感を生じさせて売れ行きが芳しくなかった商品が幾つかあるのです・・・」などと言いたくなるかもしれません。しかし、商品の売れ行きについて、パッケージの縦横の比率が統計的に有意な条件となっているかどうか、どうやって分かるのでしょうか。広告業界でもしばしば言われることですが、一つの要素だけを違えて全く同数の商品を製造して均等な地域へ分布するように出荷するという、単純な A-B 分析など実はコストがかかりすぎてできません。同じ商品を異なるサイズで(しかもサイズという条件の他は全て同じにして)販売するなどといったことは、パッケージの版下を2組ずつ用意するくらいならともかく、販路に対する出荷のコントロールや、広告に使うパッケージも2種類ずつ用意しなくてはいけないとか、あるいは実際にどちらのサイズがどれだけ売れたかを正確に集計しなくてはならないとか、あまりにも手間がかかりすぎるからです。したがって「縦横が黄金比ではなかったゆえに商品の売れ行きが芳しくなかった」という統計は、既にそのように解釈された統計と言わざるを得ず、実際には他の要因があったかもしれないという可能性をあらかじめ排除した結論である可能性が高いかもしれないのです。

かようにして、黄金比が何らかの合理性や人間真理の真相に対応している筈だという予断にもとづいて出現する工業製品や珍説・奇説(もちろんここにはプロパガンダという意味合いでの「広告」も含まれます)のたぐいがはびこり、中には「黄金比」と正確には同一でないことから「理想の比率(黄金比率)」という苦しい表現でプリンや料理本を発売する人々もいます(当然、その比率には黄金比とは何の関係もないどころか、美味しいかどうかを保証する独立した根拠もありません)。そして、彼らがセールストークとして口にするのは、次のような表現になるのでしょう。

あの『ダヴィンチ・コード』のなかでも重要なキーワードとして語られている「黄金比」をコンセプトにしたコレクションで、キャップの長さ(0.618)とキャップを閉めたときのボディ全体の長さ(1.618)に黄金比が用いられています。ボディのねじれは、正五角形の頂点2つ分の144 度。整然としたフォルムは、ビジュアル的な美しさだけでなく、握りやすさも兼ね備えています。

日経BP「ビスコンティの人気万年筆BEST3

上記引用の長々と書かれた解説が、末尾の「握りやすさも兼ね備えています」という表現に対して論理的に何の根拠にもなっていないということは明らかですが、素朴な読者であれば、既に黄金比を参照するというだけで何らかの理由があるのだろうと思い込んでしまうかもしれません。もちろん黄金比を参照した理由があるにはあったのでしょうが、それはペンの握り方や重心の位置や握りやすさや疲労度を大がかりに調査したり分析した結果から産まれた商品というよりも、デザイン、営業、広告、決裁権者といった人々の思惑あるいは率直に言ってビスコンティという会社のプロダクトマネジメント能力の低さが産んだ商品と言うべきでしょう。

自然界に黄金比が観察できるとか、あるいは黄金比でデザインすると安定感があるといったオカルトが一部のデザイナーたちにもてはやされる理由は、彼らが無能であるという事情の他に何があるのでしょうか。ものの形の美しさに惹かれる人は多いですし、また数式の美しさに惹かれる研究者は、もちろんアルキメデスからアインシュタイン、そして小川洋子さんの小説に出てくる主人公に至るまでたくさんいました。このような美意識を否定するつもりはありません。x = x という数式は、あまり現実生活の役には立ちませんが、美しいと言えば美しい。そして x = ( x + x ) - ( x - x ) - ( x + x ) + x も、役に立たないどころか無益な煩雑さを増しているばかりではありますが、或る種の美しさは持っていると言えるでしょう。E = mc2 も、式が短いという理由だけで美しいと言えるでしょうし、もう少し込み入った公式などでも、繰り返しや同じアルゴリズムが入れ子になっているといった理由で「美しい」と感じる場合もあります。

しかし、形の美しさは「黄金比だから美しいのだ」と言って済ませられるような、理屈の単純さだけで語られてよいものかどうか。例えば、「自然界にある黄金比」の事例としてしばしば紹介されるオウムガイの殻を見てみましょう。

オウムガイ

この殻の縦横の長さが黄金比になっているという説明は、数学者でさえ口にすることがあります。しかし実際にこの写真で縦横の比率を計ってみると、次のようになります。なお、下記の図を作成するために Y. Tanimura さんの Spiral というソフトウェアを使わせていただきました。

殻の比率

このように、自然界からの無作為なサンプルとして選んだオウムガイの殻に黄金比など反映されていません。この画像の殻だけが特殊なのか(Wikipedia の画像です)どうかは分かりませんが、少なくとも一つの反例があるということは、オウムガイの殻の長さについて黄金比が厳密に当てはまるとは言えないでしょう。また殻の形からも推測できるように、殻を傾けて縦横の比を計り直せば都合の良い比率の近くまで調整できてしまうかもしれません。もちろん、黄金比という比率がオウムガイの殻のサイズについて普遍的に当てはまるとは誰も言っていないのでしょうが、そうであれば逆に、オウムガイの殻に見られる比率が黄金比になっているとかいないという議論に、科学的な価値は殆どない(もう少し穏健な言い方をすれば、統計的に有意ではない)と言ってもよいのではないでしょうか。

このように見てくると、「黄金比でつくられた形は安定している」と言う人がいれば、実のところそう言っている人が「自分でそう語ることで安心している」だけではないのかと言いたくなります。それでは、なぜ黄金比を参照すると、一部のデザイナーは「安定している」と考えるのでしょうか(あるいは「安心する」のでしょうか)。まず、まともそうに見えるところから始めてみましょう。『美術科教育学会通信 No.53 −10』(2004) に掲載された「基礎造形教育におけるデッサンの目的と意義 − 絵画作品の幾何学的実証を通して −」という文章を見てみます。デッサンの意義がどこにあるのかを問うた文章ですが、その研究方法として、

具体的には,デッサンの訓練や修練を通して,美の本質の一つとして均衡・調和の感覚が養われるという理論的仮説を立て,科学的とくに幾何学的手法を用いることによって,その検証を試みたのである。画家の磨かれた感性による作画は,西洋で科学的に追究されてきた,美的な一つの基準としての黄金比を充足する。その証明をもって,人間が有している造形的な感性を磨くという意味を問うた。

蝦名敦子「基礎造形教育におけるデッサンの目的と意義 − 絵画作品の幾何学的実証を通して −」

と語られています。皮肉な言い方をすれば、学生が修練して「均衡・調和の感覚が養われる」というのは、独りでに黄金比という基準を身につけることなのか、それとも黄金比という最終地点で待ちかまえる美術教師に向かってレールの上を走っているに過ぎないのでしょうか。もちろん、著者はかような批判を予測していて、次のように応えています。

最初に黄金比を使って構図をとるとの意味でそれを適用したのではなく,あくまでも主眼は,画家の錬磨された一点一画には,そのような規範を充足する美的なバランス感覚が内包されている,ということの証明にあった。そうであればこそ,そのような感性を磨くこと自体がデッサンの目的となり,またそこに意義があるとした。そうした修練,研鑽は尊い行為ではないだろうか。それが今日軽んじられていると感じてならない。

蝦名敦子, 同上

では、先人達が黄金比を既に参照枠(「権威」と言ってもよい)として既に知っていて作品に反映し世に送ったという事実から、黄金比という参照枠が美の根幹であり学生の模範であるという帰結に至るのでしょうか。芸術作品のどれもこれもが黄金比を使って造形したり構図を取っているわけでもないと言われているのですから、たまたま黄金比を使って作品をつくった「あの人に学ぼう」という話にすぎないのではないかとも思えます。とは言っても、教材として好き勝手な矩形を描かせるよりも、黄金比になっている矩形を正確に描かせる方がデッサンの正確さや構図のバランスを測るために有効であるという理屈は成り立ちます。また、ごく主観的だと言われがちな美的判断の裏側にも、実は単純な数学的構造が隠されているという理屈も(特に、あの懐かしきポストモダンの ‘80 年代ならとりわけ)、それなりに説得力があります。しかし、結局は誰も「なぜ黄金比だと『美しい』と感じるのか?」という問いに答えてはいないのです。たいていの人は、「多くの人が美しいと感じる黄金比」といった、論点先取の表現しかできていないのが現状でしょう。もう少しまともな人であっても、せいぜい古来から色々な芸術作品に反映されてきたという結果論に終わるか、数学的表現を添えて「美しい」と述べるのが精一杯なのかもしれません。

王義之の書も黄金比に従っているのか?

「身の回りにある『美しい』(ここで既に論点先取になっている)ものには黄金比が使われている」という表現を使わずに、どうやって黄金比という単なる数学的性質と美とを結びつけられるのか。その道筋は、黄金比やその数式表現ほど単純で美しいとは限りません。ここでまた事例を挙げてみましょう。goldennumber.net というサイトで紹介されていた、PhiBar というソフトウェアを使ってみました。これはカラーピッカーの一種と言っても良く、二つの色 A, B を選ぶと、C の色は A, B, C の色相が黄金比になるよう調整されます。このソフトを使って幾つかのカラースキームを作ってみたら、下のようになりました。

黄金比のカラースキーム

さて、デザインがカラースキームという一つの要素だけを成果としていない以上、他の要素も加味しなければ良し悪しを判断できないというのは自明なので、上記のカラースキームについて良し悪しを言える根拠はありません。それは同時に、黄金比でつくられたカラースキーム「だから」どうだと言えないことと同値です。したがって、このようなカラーピッカーは他の比率で三つの色を提案するツールと同等の意味合いしかもちません。もちろん、多くのデザイナーにしてみれば、カラーピッカーは飽くまでもインスピレーションを得るための足がかりに過ぎず、カラーピッカーが提案したスキームをそのまま何も考えずに使う人など(少なくともプロを名乗る以上は)いないでありましょう。しかし、カラーピッカーが提案したとおりのカラースキームとは別の配色がよいと考える正当な理由がなければ、黄金比のような参照枠に頼らざるをえないのかもしれません。黄金比を使ったデザインというものは、実際のところ思考停止の言い訳として参照されているに過ぎないと言いたくなるのですが、どうなのでしょうか。

このように見てくると、「『美しいもの』には黄金比が見て取れる」とか「これこれが美しいのは黄金比に従っているからだ」といった論法には、どこか論点先取や循環論法が見受けられます。他の例として、『美の構成学』(中公新書)という著書で三井秀樹さんが展開されている説明を拾ってみましょう。

1:1の関係は左右対称であり、シンメトリーとよばれているが、このバランスは安定して動きのない静止したイメージを与え、むしろ威圧的ですらある。宗教的な儀式、祭壇や教会などの配置はすべてシンメトリーであり、これが調和の本質と考えられてきた。

現代デザインでは静止したイメージより動きや変化のある黄金分割のほうがビビッドな感覚があり圧倒的に好まれている。つまり大と小のバランスがとれ、部分が全体に対して均衡がとれているほうが結果として美的な快感を感じるのである。

[...]

また、黄金分割のほかに古くから理想的な比例法として現在でもよく使われているものにルート矩形がある。この矩形ではたて・よこの比率が1:√2の関係にあり、数値であらわすと1:1.414… となる。

三井秀樹『美の構成学 バウハウスからフラクタルまで』,中央公論新社, 1996, pp.91-94.

この説明からは、黄金比によるデザインが「圧倒的に好まれている」のは、単なる流行り廃りか、あるいは歴史的な趨勢であるように見えます。1:1であろうと、黄金比であろうと、ルート矩形であろうと、それぞれ古くからデザインの参照枠として用いられてきたので、何か人間の生理的な根拠からして他の比率よりも圧倒的に優位となる事実がない限り、いま黄金比がもてはやされている理由は歴史的な偶然と言う他はありません。ありていに言って、みなさんがどういうわけか「ビビッドな感覚」をたまたま好み、そして黄金比がどういうわけか「動きや変化のある」比率だと理解されているという条件があってこそ、黄金比によるデザインが「美しい」と感じられているのではないでしょうか。

黄金比そのものに美の本質があるわけでもない以上、黄金比をデザインの参照枠としてスケールの基準に用いることは、そのデザインが「何か深遠な点において絶対的に美の性質をもつ」ためどころか、「美しく(他人に)感じられ」たり、「(本人が)美しいと感じる」ための必要条件ですらありません。黄金比のもつ数学的な性質は、美のいかなる性質とも論理的に必然だと言いうる関係をもたないと言ってもよいでしょう。逆に分かりやすく言うと、或るデザインを美しくするために黄金比を用いるかどうかは単なる趣味の問題であって、そこには黄金比を用いなければデザインが本質的に損なわれると言いうる強い根拠は立てられないということでもあります。

三井さんの著書においても、これまでの説明と同じような循環論法が展開されています。つまり、

いったい黄金比の1:1.618 の比のとき、なぜ美しくみえるのだろうか。この問いに関していままであまり明確な答えは返ってこなかったように思う。[...]

[...] 今世紀になってダーシー・トムソンら生物学者によって巻貝の渦巻やヒマワリの種の配列、サボテンの刺の配列など、動植物のきれいに見える配列がフィボナッチ級数という数理性に準拠していることがわかったのである。

つまり黄金比のA:Bは巻貝の大きくなっていく比率と一致し、その螺旋形が美しいように、黄金比も安定した大と小の美しい比率となっているのである。

三井秀樹『美の構成学 バウハウスからフラクタルまで』,中央公論新社, 1996, pp.94-95.

もちろん、急いで注釈しておくと、三井さんはこの後の段落で「形式原理ゆえに、その使用を誤ると、美しさとは無縁の造形をつくることになりかねない。黄金分割を使っているから美しいはずだという全面的に形式原理にゆだねられた美術品や建築が西欧に過去どれほど多かったことか。[...] 形式原理はあくまで限られた条件下での美の原則であって、造形する際の目安にすぎず、造形美をつくり出す必要十分条件でないことを忘れてはならない」(三井, ibid, p.97f.)と書かれており、黄金比を使うと美しく見えることがあっても、黄金比を使うからこそ美しいわけではないという主旨の適切なコメントを付けておられます。しかし、前段の説明は黄金比が「美しい」という前提に立った結果論であって、黄金比が造形の比率として「美しい」と感じられる理由をぜんぜん説明してはいないと言えるでしょう。

芸術作品、あるいは工業デザインでも構いませんが、黄金比に従ったと喧伝されているものについて強く感じる他の疑問もあります。それは、「では、なぜありとあらゆる比率を黄金比にしないのか?」というものです。例えばタバコの箱を黄金比でデザインしたと言うなら、黄金比に従ったロゴマーク、黄金比に従ったカラースキーム、そして黄金比に従って新・古紙を混ぜたパルプ、あるいはタールとニコチンの比率を黄金比になるようにまで、どうして徹底しないのか? 御利益にすがるのであれば、恥は一時のものですし、デザイナーや芸術家として自殺するのは一度で十分ではないかと思うのですが(これほどあからさまに皮肉を言わなくてもよいのかもしれません)。

このように考えると、もちろん僕も「黄金比の矩形はそれなりに整っていて落ち着いた形に見える」という点には同意できるので(笑、目に見える長さなどの比率についてはそれなりに理屈があるのかもしれないという点を否定するつもりはありません。これまでの僕の議論は、きちんと納得のゆく根拠が示されていないということであって、黄金比には参照枠として用いられるべき正当な理由がないと言っているわけではありません。黄金比と私たちの視覚イメージに何らかの結びつきがあっても、それを正確に説得できないまま「黄金比に従っている」と繰り返すだけでは、上記で述べたような「黄金比の拡大解釈」かもしれない事例がいくらでも増えることになり、そして今度は「何にでも当てはまるなら、この商品を販売するに当たって、どうして東日本の営業担当者数と西日本の営業担当者数を 1 : 1.618 の比率で配属させないのか」という、占星術も顔負けのオカルトにならざるを得ないのです。

ここまで書いてきて、やはりこの記事にも循環しているところや、発生論的な説明(ただの事実)を「べき」の議論に忍び込ませているところがあるような気がします。たとえば Tumblr では、「黄金比だから美しい、のではなくて、美しいと私たちが感じるものの多くが黄金比の造形になっているということだと」いうのに、上記の記事は初手から間違っているとコメントしてもらっています。もちろんこのコメントの趣旨は正しいと思うのですが、上記の記事をご覧いただくと、「黄金比だから美しい」とは決して述べていませんし、更には「黄金比などデタラメだ」とも述べてはいないのです。

美しいとかそうでないといった判断が偶然的でないとすれば、ヒトにそう認知させる形状の根拠があるのでしょう。その一つが黄金比だという理屈であれば、それはそれで筋が通ります。また、美しいとかそうでないといった判断が偶然的だとすれば(歴史的あるいは「文化的」と言って良いかどうかわかりませんが)、これまで或る地域に生きていて何らかの条件を満たした多くの人がそう認知してきたという根拠がどこかにあるのでしょう。その場合は根拠が形状にあるという保証はなく、それは広告の視覚的な演出や権威からの圧力といった心理的なものかもしれません。したがって、「美しいと私たちが感じるものの多くが黄金比の造形になっている」と主張する理由を、「実際に黄金比でつくられたものの多くが美しい」と言うのでは、循環論法になってしまいます。なぜなら、黄金比にもとづいて何かの作品をつくった人たち自身が「黄金比でつくられたものを美しいと感じていた」のかもしれないからです。もし過去に芸術作品をつくった人たちすべてが、知らぬまに黄金比に従って構成を練り上げたというのであればともかく、そうではないでしょう。

それゆえ、言葉遊びにならないよう気を付けて整理し直さなければ、認識論と存在論のどちらが優先するかという堂々巡りをここでも繰り返すことになります。そのためには、ここで言っていないことをはっきりさせておきます。まず、上記の中で「根拠がない」と述べている箇所があると思いますが、そこでは「黄金比に根拠がない」と言っているわけではありません。そうではなく、「黄金比になっているから」とか「黄金比になっているこれこれしかじか」といった表現を使い続けるだけでは、黄金比という参照枠を裏書きする議論ができていないと言っているのです。数学であれ認知科学であれ社会学であれ「では、なぜそれを美しいと判断するのか」という点から黄金比を取り扱わない限り、どのような議論であっても、とどのつまり「黄金比を取り入れているこれが美しいのは、美しい黄金比を取り入れているからだ」という循環論法を回りくどく言っているだけにしかなりません。

また、人のやることや自然のなすことが数学的な規則性と厳密に合致していないという指摘をしましたが、もちろんそこでは数学的に厳密な比率でなければ美しくないといった議論をしてはいません。オウムガイの殻の比率が黄金比になっていないという指摘は、「それゆえ自然界に黄金比などない」という結論を導くための議論ではありません。もともと自然界は人間の数学や物理が理屈としてどうなっていようと知ったことではありませんし、数学があってもなくても自然は自然のままあり続けます。ここでも同じ論点に行き着きます。つまり、自然について黄金比を近似として使えるかどうかだけでなく、「では、なぜオウムガイの殻の縦横比率だけが問題になるのか」と問うてみて、黄金比という参照枠を議論に引っ張り出してくるロジックを反省してみてもよいだろうと言いたかったのです。そうしなければ、ここでもやはり数学的な根拠の話をしているようでいて、実は幾つもある規則性の中から勝手に選んだ一つの規則性を美の基準として語っているにすぎなくなります。

2個のコメントがあります

  • http://www.morinagamilk.co.jp/products/brand/ougon/index.html
    こんなもんもあるようです。^^;
    黄金比の意味が違うようですが。
    オカルトと言えばコリン・ウィルソンの「オカルト」を持ってるが、20年経っても
    読み切れてない。

  • 投稿:liki /

  • お久しぶりです。コメントありがとうございます。

    プリン出てますね。それから本文でもちらっと述べましたが、料理で使う調味料の配合にそれらしき表現を使っている方もおられるようです。ただ、liki さんが仰るように 1:1618 ではないので、「問答無用のすばらしき~」という “golden” の意味合いを「黄金」という言葉に換えて、「黄金比率」と表現されているようです。

    ・・・でも、僕の「オカルト」という表現もちょっと意味が違うかも。

  • 投稿:philsci /

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