「思い上がった会話」は死ななくていいの?
2009-09-18 20:08 /
最近は、たまに新聞というものを読む機会があると、「なんでこんなにつまらないのだろう?」とつくづく思う。それはつまり、それらの言葉が「人が人に語りかける言葉になっていないから」なんだよね。出版人に対してはこれまで何度も「一冊の本はこれから展開するであろう多面的なコミュニケーションの契機にすぎない、言い換えると、本自体は永遠の未完成情報体である」と言ってきたが、分かってもらえたためしはない。彼らは、本は立派な完成商品である(べきである)と誤解している。そして超長期の出版不況に反省の色もない(彼らのインターネット利用は、世の中でいちばん遅れとるわ)。
当該の記事は、オーディエンスさえ獲得してしまえば、ネタがなくなってもこういう自意識系の記事で埋め草にできるという好例であろう(笑)。まさに従来の新聞や週刊誌と寸分の違いもないメンタリティで配信されていると言って良い。昨今のニューズサイトの記事なんて、「人が人に対して」どころか、自動翻訳の出力文字列が検索エンジンロボットに対して最適化されてるようなレベルだろうに。
で、昨今の「ソーシャルな」あれこれを弄くり回している人々の中には、かようにして、旧来のメディアは「人々に語りかけていない」と不平をもらす。しかし、彼らはいったい誰に語りかけているというのか。自分たちが勝手に思い描いている「オーディエンス」ではないのか。まさにそれは、南北アメリカの原住民たちを前に神の教えを説いていた征服者たちとどう違うのだろう。いや、宣教師は少なくともペルーやザンビアには足を踏み入れた。上記のような手合いをはじめとする「ネット論壇の有名人」みたいに、渋谷や新宿の高層ビルでワイングラスを片手に自由を語るようなクズ人間たちよりも、苦労はしたはずだ。
所詮、このような連中がやっていることは「北半球の社交クラブ」だ。
自分たちでは「すべてはテクストである!」と、20年前のケセラセラ・ポストモダンの焼き直しをやりたいのだろうが、所詮は浅田彰を始めとする人々がセゾンカードで買ったつまらない洋服と同じように消費され切ってしまった思想的な廃墟と言うべき現代において、孤独に旧来のモノローグを繰り返しているだけではないのか。かような連中こそ、フーコーやデリダが一連の著作で描こうとした暴力装置の歯車なのだと思う。
