Holocaust博物館テロで犠牲者が出てもFacebookは憎悪発言を野放し―あとは広告主の圧力しかない
2009-06-20 00:00 /
先週、ホロコースト否定論者がワシントンのホロコースト記念博物館を襲って警備員の1人を射殺した。Facebookではホロコースト否定グループがいちはやくこの事件を題材にしてホロコーストを嘲笑する漫画を掲載している。にもかかわらず、 Facebookはホロコースト否定グループを容認する方針を変えようとしない。[ TechCrunch Japan ]
海外でもかような騒動はたびたび起きているわけだが、もちろん我が国でも南京事件(飽くまでも中立的な表現を使っているだけで、否定派というわけではない)をめぐる論争が1970年代からずっとあるのはご存知のとおり。最近、その手の書籍を文春から岩波まで色々と少しずつ読んではいるのだが、改めて気づかされるのは、何かが実際に起きていた(つまり正確な証拠や記録を元に立証できた)と言えるための「事実」がどれほどあっても、それらを「出来事」としてつなぎ合わせるための継ぎ目を推論で補わざるを得ない部分が残れば、そこに反論の余地が生ずるかもしれないという点だった。そして、カルナップが言った “state description” など我々は手にし得ないのだから、そういう余地が歴史上のあらゆる出来事に必ず残る(ここでは敢えて「残ってしまう」とは言わない)。
これは、考古学的な時代を想像すればすぐに分かるだろう。当時の弥生人なり縄文人が、初めて眺めた富士山の光景や、山道でいきなり出くわした獣を眺めてどうしたのかを、彼らに成り代わって今の言葉で表現する難しさを考えてみればよい。富士山を仰ぎ見る位置に遺跡が見つかったり、野生動物に襲われて死亡したと見られる縄文人の骨が発掘されたとして、誰かが富士山を眺めたり獣に出くわしたという事実が確定したとする。それでも、富士山を眺めて恐れおののいた彼女は地面にひれ伏したとか、狼に出くわして持っていた棒を武器に応戦したが噛み殺されてしまったとか、そのような一連の出来事を語るには、不足している点を補いながら推論を重ねるしかない。なるほど、遺跡や山道跡から他の情報が何も引き出せなかった場合は、事実から語れる範囲を超える、出来事の正確な再構成は原理的に不可能と言ってよいだろう。しかし、だからといって何も語ることがないかと言えば、他の遺跡で得た情報や、当時の動植物なり地質なり気象の特徴を知ることで、暫定的に加えた推論部分の正しさを補強することはできるだろう。
余談になるが、歴史学なり考古学は、いま述べたような点から考えると、推論のあつまり(学説)を他の可能性に対して常に同じ強度をもって受け入れるわけではないと言えるだろう。入門書や概説書を見ると、ときおりは、あたかも全ての可能性について開かれているかのように構えて誠実さや寛容を装うエセ相対主義の表現も見かける。しかし、いやしくも持説を構成する推論の強度を上げてゆき、ひいては最も強度の高そうな推論にまで引き上げることが個別の研究に期待されている目的だと言えるなら、素人向けにわざわざ学問の目的を暇つぶしと同レベルで説明するのはバカでしかない。説明している当人は暇つぶしと大差ないレベルで数百万の科研費を使いながら「研究」しているのかもしれないが、学問が(あるいは自分の専攻する分野が)とにもかくにもそのようなものだと言うのは、どれほど寛容を装っていても、実態は傲慢以外のなにものでもなかろう。
さて、個々の事実から一連の出来事を再構成するのが難しいだけでなく、我々がそれぞれ身を置く大文字の歴史を再構成したり理解しようとするまでに至れば、そうした個々の事実を推論でつなぎ合わせた出来事を、もっと巨視的であるか複雑な推論で再構成するだけでは足らず、そこに当時はどういう意味があったかを現在の我々の目から見て酌み取る必要まで生じるだろう。これは、おおよそ「歴史的再構成」と呼ばれる仕事に近い。そして、そのような種類の再構成は過去の出来事の解釈だけにとどまらず、古典の解釈にも求められている作業だ。僕はかつて20代の前半に、いわゆる「合理的再構成」だけでどんどん進んでみるようなコミットメントをしない大学教師や評論家は「哲学研究者」に過ぎないと考えていたが、いまは、堅実な成果と言っては語弊があるにせよ、過去の出来事(を再構成すること)から学ぶためには、歴史的再構成を通じて、何かを解釈しようとする自分自身にどのようなバイアスがかかっているかを洗い出すような作業も必要なのだろうと思うようになっている。
過去の出来事を客観的に記述する再構成するだけでなく、それをいまの我々という立場から理解する再構成も、記録や証言に乏しければ遂行が困難になる。「過去の記憶の消失」は、もちろん戦争体験や地方の民話だけに限らず、色々な経験を語れる人々が高齢となり、亡くなる以前に早くも記憶自体が遠のいてしまっている場合もあろうから、それをどういう観点から受け止める用意があるのかは別にしても、過去に関心をもつ人々からは常に懸念されてきた。高齢者が手元に残している当時の軍票だとかメモは資料として一定の価値はあるが、写真や日記帳を手にしていた当人が、それらをどのような経緯で入手したり書き留めたか、そしてそれらを眺めたり読み返してどう思っていたかという説明は、ひとたび消失してしまうと、物品をどれほど回収・保存したとしても決して正確には復元できない情報だから、なおさらだ。
こう書くと、「そのような説明は弁護士や『支援者』たちの協力による後知恵ではないか」とか「後でテレビ番組や映画を見て都合よく補正された『記憶』ではないのか」と言う人はいるかもしれないが、数をたくさん集めると、テレビ番組や映画を見た影響だとか、一定のイデオロギーによって過去の体験を「記録」している目論見というものは(短期的には混乱を招くとしても)いづれマクロには分かることだと思うし、分かれば後知恵として「括弧に入れやすくなる」かもしれない。もちろん、個別の証言に関心があってマクロな理解などどうでもよいという人は別だが、そういう人は個別事例において起きがちな(必ず起きるかどうか分からないからこそ扱いが難しい)記憶のブレや証言者の個人的な思い入れというバイアスに翻弄されかねないリスクを背負うことになる。
ともあれ、過去の出来事をマクロに再構成できて、外部から(後から)加えられた何らかのバイアスを括弧の中に追い出せたら、今度は「どうして多くの人が過去の体験を『そのようなことだった』と思ったのか」という別の興味深いテーマにもなるだろう。ゆえに、バイアスがかかっていようといまいと、語ってもらえる限りは記録することが望ましい。たとえ後でノイズやバイアスを取り除くのが困難であろうと(もちろん記録にあたっては、取り除くべきバイアスがあると最初から仮定する理由はないが)、少なくとも消失してしまうよりはマシなのだ。更に、そうした証言や記録を後世の人間が或る視野でもって収集して解釈したという手続き自体にも検証の余地があるので、時勢や政治的バイアスとの関係でどのように記録されたり取捨選択されたかも、記録としてはどこかに留め置くべきだろうと思う。
では、Facebook のアカウントを ban することは避けるべきであり、Facebook の対応を支持するべきなのだろうか。ヨーロッパの一部ではフランスのゲソー法が象徴するように、Holocaust denial の表明それ自体が邪悪であるという理由で、Facebook の対応に異議申し立てはできるだろう(Facebook の企業活動に対して、法的な効力があるかどうかは疑問だが)。しかし Facebook に対して、ゲソー法よろしく最初から特定のコンテンツを排除しておく規約を設けろと言うつもりなら、それには反対だ。なぜなら、概して人には他人の内心が本当はなかなか分からないし、どういうことを考えたから当該の行動を取ったのかも、なかなか正確に説明できないからである。であれば、少なくとも推論の出発点になりうる Holocaust denial が表に現れない状態で殺人が起きても、推論を遡って Holocaust denial へ辿り着けるかどうかは分からないだろう。我々が、ホロコーストは史実であり Holocaust denial は間違いだと認めた上で何かをすべきだと考えるなら、「内心の自由」という領域に、誤った(と一方が言う)歴史認識を言論の排除という手法で追い込んでも解決にはならないと思うのだ。Holocaust denial が表明されているおかげで特定の傾向の殺人が起きたのだと述べることは、両者を結びつける(歴史学上の推論とは別の)推論として扱うなら、それほど強いとは思えないわけだが、少なくとも推論の端緒が(被疑者が意図的に動機を黙秘していなくても、無意識に作用した可能性は残る)全く見当もつかなくなるよりはマシだと思う。
恐らく差別に関する議論とも繋がる話になるが、人間の社会で生じうる軋轢や問題や偏見を「ないものとして」あるいは「なかったこととして」扱っても、そのような社会で生まれ育つ人間が、別バージョンの部落差別や人種差別を新しく始めたりしないという保証はない。それよりも、我々はこういった課題を抱えてきたし、いまもそれは形を変えて有ると伝える方がよいと思う。そういう点で、高度な社会というものは、過去をつまびらかにして、自らに思考の分岐点を数多く設ける訓練を求めるのだろう。これに対して、人はもっと自由にものを考えられる方がよいという思想的なセンチメンタリズムは、芸術家や科学者の(言葉ではなく思想が)子供じみた伝記によくありがちな通底音だが、昨今の「品格」本ブームや「自由」主義という語句の濫用に象徴されるように、納得のゆく根拠で別の分岐点を示すことと、分岐点がなかったかのように思考のステップをありもしない方角へ向けることは同じではない。
また、過去を伝えたり、その伝え方にも着目せよと教えることによって、いままで知らなかった情報を与えられた人には、「これこれのガスは実は大して使われなかったからホロコーストも史実ではない」という短絡が生じてしまう可能性もあるだろう。しかし言論を封殺すると、そのような短絡が人々の一部に生じているかどうかを我々が見出すのは不可能になってしまう。なるほど、昔から「寝た子を起こすな」という話はよく聞かれるが、以上のように述べたからと言って、僕らは会社や街頭で出会う人々と、他人の内心をえぐり出すために、いきなり Design argument の是非や南京事件の規模について議論を始める責任まであるわけではない。だが何らかの機会にお互いの考え方が分かったならば、自分が正しいと考えるところに従って他人を説得しようと試みることは、恐らく我々自身に科せられている(たぶん不完全義務としての)社会的責任であって、Holocaust denial の言明を封殺すればよいというのは、社会的責任の放棄であろうと思う。
