ある日の出来事
2007年08月04日 23:51
週に3日はタクシーで帰宅するような生活が続く。労働基準監督署の建物の外では特に珍しくもない、IT業界のありふれた光景である。既に正面玄関のシャッターが降りて、地下からテナントビルの外へ抜け出てくる頃になると、路上にはタクシーが並んでいるだけだ。いつもはDビルの前に6~7台くらい並んでいるが、今日はなぜか2台しか停車していない。しかも、先頭の車では運転手がシートを倒して、外まで聞こえるほど大きな声で「ぐぁぁ、ごぁぁ」と、いびきをかいている。午前3時を過ぎると、何台かの運転手は仮眠しているので、こちらが遠慮して他の車を探してしまうくらい遅いのかと実感する。後ろの車に振り返ると、前で寝ているのは承知しているらしく、「こっちにどうぞ」と手招きしている。同じ会社のタクシーなので、同僚を気遣っているのか、それとも自分の売上にして早く帰宅したいのか。客の方が複雑な心持ちで後部座席のドアから滑り込む。
「お気を付けてどうぞ・・・どちらにしましょうか?」
「御堂筋に出てください。」
ふと見上げると、DビルとFビルは1/3くらいのフロアで明かりが点いている。
「あーまだやってるなぁ」
自社にも男女合わせて5人くらいが残っているのを思い出す。既に「残っている」という自覚が失われつつある世代の若者たちだ。いや、たぶん本当は失われないからこそ、この業界では転職の理由が残業の多さや拘束時間の長さなのだろう。
「お客さんね。」
急に運転手がこちらを向いて、声をかけてきた。さきほど運転席に座っている姿を見たときは初老の人物に思えたが・・・実は「初老」という言葉の印象が浮かんだだけで、実は「初老」が何歳くらいのことなのか知らないから、間近で向かい合ってみたら大袈裟な表現を使うほど年配ではないな、と思った。
「いや、フロアの蛍光灯を消し忘れて出て行かはる方も多いらしいんですわ。そやから、ずぅっと待ってたら、結局は朝まで誰も出て来はらへんかったこともありますわ。」
「なるほどねぇ。」
こちらは現に残って仕事をしている連中を後にして帰宅するから、それこそタクシーの中で話すような、言ってみればどうだっていい話題だ。しかし、それなりに会話のネタにはなるのだろう。
「『こっちもやってるから、しっかりやれよ』ってことなんでしょうかね。」
と、わざわざ滑舌良く答える。営業力というか、会話での押しが弱いと自覚しているので、こんなところで無駄に明瞭な返事をしてみる。
「さぁ・・・そしたら、御堂筋でよろしいか。」
運転手も、どうだっていい話題だと少しは分かっているらしく、切り上げて車を出す。いつものようにFビルの前を左折して南へ向かい、堂島浜へ出たら再び左折して東へ向かう。いつもこの繰り返しだ。運転手が客と話したがっているかどうかは、だいたい堂島浜へ出るまでに分かる。堂島浜を大江橋まで行くあいだ、殆ど喋ってこないなら、その運転手は話したくないか話すことがない。逆に、自宅近くまでずっと喋っているような運転手だと、堂島浜を東に進んでいる間もずっと喋っている。やれ息子がどうしたの、今度の選挙はどうの、天気が、株が・・・客として付き合うのもそれなりに神経を使う。別に迷惑ではないが、ときどき辟易するような話をしてくる運転手もいて、深夜に帰宅する途中もなかなか大変だ。
「いつも6台くらい並んでるのに、今日は少なかったですね。」
暇なときはこちらから声をかける。相手はたぶん、話すのは面倒でないタイプだろう。
「あぁ、今日は金曜日ですからね。わざわざDさんの前で粘ってなくても、新地に行ったらお客さんがいはるかもしれませんし。」
「なるほどね。そういや、もうタクシーで帰るようになって半年以上は経ってるけど、Dさんの営業さんとかディレクターさんがタクシーに乗ってるところって見たことないですね。」
「最近はどこも節約されてますからなぁ。チケットとかも少なくなってはるらしいですわ。
といった、とりとめもない会話が暫く続くと、大江橋あたりまで来る。大阪市役所と日本銀行の間を抜けるあいだ、「なんでここら辺はいつも工事をしてるんだろうか?」と思ったり、あまりの生活感の無さに一瞬だけ途方にくれてみたりする。そして、
「あ、やっぱり左に曲がって天満橋まで行ってください。」
などと言ったりする。ありふれた道順だと、そのまま御堂筋を進んだら、その先でタクシーの天井からシールが貼られて出荷されそうな不安を感じる。そして、東急ハンズあたりで「残業疲れのサラリーマン(1/48スケール)」などと売られているかもしれない。そんなものが売られていたら、もしかすると自分が自虐ネタとして買ってしまいそうだ。
「え、こちらでよろしいか?」
「はい。こっちへ曲がってください。」
「そしたら。」
車が左へ寄る。淀屋橋の交差点を左折しながら、交差点付近で客を待っているタクシーが2車線ほどになって道を塞いでいるので、たいがいの運転手はこの交差点を左折するときに、舌打ちするとか何らかの不快感を表す。そんなに急いでどうするんだろう。客が急いでくれとも言っていないのに。
「別に急いでないですから、いいですよ。」
「あぁ・・・」
と言って、運転手が愛想笑いで答える。
「そやなくて、お客さんをお送りしたら今日は上がろうと思うてましたんですわ。すんません。」
てめーの都合かよ。
とは口にしていないが、些細なことでイライラする人間を見ているのは不快なので、それ以上は話すのをやめることにした。自分自身もどちらかと言えば気が短い方だが、人前ではよほどでない限りはイライラしたり困惑した様子を見せないようにしている。会社の経営者とかであれば、バカでもなんでも何をやろうと、自分で責任をとるのが当然だから何をしてもよいだろうが、勤め人は自分の感情を表に出しても、営業的な効果や利益がないときは慎むべきだろうと思う。だから、逆に大して物事の真相を分かっておらず、また分かったところでどうしようもない外野がイライラしているのを見ると、「てめーの都合だけで感情出してんじゃねーよ、ガキが」という気分になる。感情を抑えることも、人間的な振る舞いなのだ。
「天満橋まで行って、どうしましょう?」
「少し先まで行って、上町筋に入ってください。」
という会話を最後にして、こちらから話しかけるのはやめようと思った。気の短い人間に、チューインガムを噛みながらスキップさせるのは危険というものだ。
いま走っている道は、なぜか「土佐堀通り」という名前よりも「国道168号線」の方が覚えやすいと思ってしまう。逆に、名前を付けるほど愛着のある人がどれほど今の大阪にいるのか、と問いたくなる。ひょっとするとタクシーの運転手さんだけではないのか?
ふと車窓の外を眺めると、川の向こうに西天満や天神橋筋のビルが見える。ふと、どこかで同じ風景を見たような気もするし、全く初めて見る風景のような気もする。あるいは『部長刑事』とか NHK の連ドラとか、何かのテレビドラマで見たシーンなのか、気味が悪いくらい、何かを暗示する光景としてわざわざここにありますといった風景に見える。つまり、作り物のようだ。
同じ気分なのかどうかわからないが、出勤するときも、公園の周りに植えられた木々を眺めながら地下鉄の駅へ向かっているとき、ふと違和感を覚える。あれ、俺はここに出張で来たんだっけ? そういう気分になる理由は正確には分からないが、一つの条件は目線の角度なのだろう。いまもこうしてタクシーの車窓から眺めている風景は、ふだん路上を立って歩いている限りは作れない目線で見ている。出勤するときに感じた違和感は、いつもなら公園の周りに立っている木々など気にもしないのに、その時は立ち並んでいる木を眺めていたから感じたのだろう。要するに、いつもは目線が低いのだ。
こうしたことが気になってくると、わざわざ他人と上滑りな会話を喋り続けることなどどうでもよくなるので、運転手が静かになったのは都合がよかった。返事をしなかったことが、返事になったのだろう。こちらは考え事をしています風の様子でいるから、遠慮してもらってもいるのだろう。しかしいづれにせよ、小説じゃあるまいし、そんな些事の真相を詮索しても仕方がない。こちらはそれよりも奇妙な感情をうまく理解したいのだ。
やがて北浜あたりまでやってくると、天神橋の交差点から南天満公園の彼方に広がる景色が目に入る。とても大阪の中心街とは思えない。いや、そうでもないか。どうしてそんな風に感じるのだろう? 単に高層ビルが少ないからか。あるいは最初から南天満だと分かっていて、小さな事務所がひしめき合っているという印象が重なっているのか。どちらかと言えば、大阪というよりも東京で見た風景に近い。手前から川、森、適当に密集したビル群。ああ、まるでどこもかしこも作り物のようで、じわじわと頭の後ろから不安なのか不快なのか分からない感情が起きる。
そうして嫌な気分になった次は、いま自分が出張や観光でここに来ているような気分になっている。殆ど同じ風景を見ている筈だが、自分の方で景色から受ける印象が変わってゆく。あるいは、いま眺めている風景をもっと俯瞰しようと思って視界を意図的に広げると、タクシーというか自動車が、いままで感じていたよりもガラスだらけの乗り物だと感じる。こんなの、上から物が落ちてきたらどうやって支えるんだろうか。いま自分が眺めている視界のうち、視線を遮っているのは助手席のシートと、窓に貼ってあるシールくらいのものだ。『アタック25』で言えば、18 と 23 のパネルが隠れているくらいのもので、あとは殆ど開いている。そうか、実はもっと他のものも見えていたのだ。
天満橋までやってきた。京阪電車の行先表示板が鮮やかなブルーで点灯している。いままで小豆色と鶯色の印象しかなかったが、あの色はよい選択だと思った。確かに日中はもっと他の色が視界に入るので目立たないが、単独で見たらはっきりしているし、文字とのコントラストが美しいと感じる色に思える。その下では、とても人間の体型とは思えないほど痩せた青年が、iPod をぶら下げて足早に歩いている。iPod を首からつり下げるだけの体力や筋力があるのかと思えるほど、痩せている。青年後ろを、30歳台の女性が二人で歩いている。話をしながら歩いているらしい。よく見ると喋っている身振りが不自然だ。タクシーが走り出したのでよくは分からないが、たぶん日本人ではないだろう。
上町筋に入ると、車は急にスピードを上げる。なぜかたいていのタクシーは、上町筋に入ると NHK 辺りまで急にスピードを出すので、場合によってはカーブで思ってもみないほど遠心力がかかり、それに耐えようとして車酔いしそうになる。
「ここら辺で、よろしいですね。」
あとは自宅近くまで道順を教えるやりとりがあって、料金を払うだけだ。見慣れた・・・深夜の風景を見慣れるのもどうかと思うが、ともかく安心する風景の中で車が止まると、やっと帰ってきた気分になる。
「そしたら、がんばってくださいね。」
こんなことを言って車を出す運転手も多い。あるいは運転手の中には、
「ほな、晃司。しっかりして、早う結婚しいや。」
という人もいる。誰なんだ、晃司って。
