「消えモノ」としてのウェブサイト

2009-01-26 03:54 / design,scribbles

ウェブサイトの多くは「消えモノ」である。ドメインを維持しているとしても、リニューアルを繰り返して過去のページを削除したり、あるいは内容を変えてしまうサイトもたくさんある。歴史的な意義を考慮すれば、確かに何らかの形で保存すべきかもしれないが、そのような仕事を誰がどうやってすればいいのか。そして、本当にそんな必要があるのか。

guardian.co.uk に掲載された ‘Websites “must be saved for history”‘ という記事では、大英図書館の重役が語った談話として、次のような話が紹介されている。すなわち、ウェブサイトやデジタルデータを保存していかなければ、それらの歴史的な資料はどんどん削除されてしまっている。ちょうど、コンピュータに保存してある家族の写真が、技術の陳腐化などによって子供や孫に見せられなくなってしまうのと同じようなリスクがあるというわけだ。2000年に開催されたシドニー五輪に関連する 150 のウェブサイトは、五輪が終了したとたんにネットから姿を消した。そして、オバマ大統領が就任したことで前任のブッシュ氏に関連するウェブサイトも削除される予定だとか。

さて、趣旨としては資料的な価値のあるウェブページを保存しておきたいというのは分かる。僕も大学の研究者が異動に伴ってウェブサイトを閉じては開設しての繰り返しをしていることについて、「研究者としては時間の浪費でしかない」と断言した記憶がある。例えば、ReaD などのサイトで、Facebook とまでは言わないが、大学からは独立したリソースとして場所が確保されていれば、まだましなのではないかとも思う。

しかし、ウェブ上のリソースはどこまで行っても本質的に刹那的なものであって「消えモノ」と言ってよい。しかるに、研究者や国家が持てるリソースを使ってスクレイピングだのスパイダリングだのをやっていくのは勝手だが、寧ろそのような虚像とも善意ともつかないリソースに頼るしかない、現今の人間の歴史というものを考察するほうがよいのではないか。

僕がネットを使い始めた 90 年代の後半、自然科学系の大学図書館に付属していた情報処理センターなる部屋で、シリコン・グラフィックス社のワークステーションにログインしては、message manager でメールを受信したり、Netscape Navigator で海外の研究者のサイトを見ては、論文を印刷したり、あるいは構成的経験主義について、Bastiann Cornelis van Fraassen の公刊論文をチェックしたりしていたのを覚えている。あの頃見ていたウェブページは、まだネット上に存在している。しかしそれは、ヴァン・フラッセンが現在もプリンストンで教えているからであって、リタイアすればウェブサイトが残るかどうかは分からない。そして、それらを残す意義があるかと言われれば、いまのままの形で残す意味はないと言わざるを得ない。

bas-c-van-fraassen

この体裁のまま保存することに、いかなる学術的な意義もないと思う。

ウェブサイトというものは、更新できる。昨日書いたブログの記事を、翌日に修正したり消してしまえる。そうした事実も含めて保存するとなれば、なんらかの取捨選択の基準を設けない限り、いかな Google でも完全なアーカイブというものは不可能だと言って良い。もしそのような保存をはじめたら、いわゆる「オン書き」しているときの推敲プロセスまで保存しなくては気がすまなくなる研究者もいるだろう。3文字だけバックスペースで消すまでのバージョン、途中まで書いて消してしまったバージョンなどなど、それこそキーロガーがスキャンしているデータの世界である。

そしてきわめて危険なのは、こういう議論をネット上で騒いでいると、まるで人類のリソースがネット上にしかないかのごとき妄想に進展してしまう場合があるということだ。もちろんネット上にも重要なリソースはあるかもしれない。しかし、誰かにとって有益かもしれないという理由だけでいちいちウェブページなど保存していてもきりがない。そもそも、テレビ番組ですら局にマスターテープが残っていない場合も多いのだ。もちろん、個人的に保存している人は多いだろう。僕も、互換シェルのウェブサイトや開発者のブログ、あるいは自分自身のサイトをローカルに保存してはいる。けれども、それは自分にとって価値があると考え、更に自分が使う場合に限って認められていることだと思うから保存しているだけであり、公にウェブサイトをアーカイブするとなると、Wayback Machine と同じ運命をたどることになるだろう。昔のウェブページをアーカイブされて喜ぶ企業など、あまりないからだ。そして、第三者に利用させる目的でウェブサイトをアーカイブする行為は、ブラウザのキャッシュはどうなのだという議論もあるには違いないが、著作権法上はかなり怪しいと思われる。

ウェブサイトの制作・構築という視点で考えてみると、ウェブサイトはもちろん「消えモノ」である。限りなきリニューアルと、限りなきプロモーションサイトの公開と削除を繰り返さない限り、何度も言うようだがウェブ制作プロダクションのサイト運営スキルなど素人に毛が生えた程度でしかないのだから、成果も売り上げも上げられまい。刹那的でクソの役にも立たないビジュアルや FLASH を、「デザイナー」とか「なんたらテクノロジスト」といったクソみたいなプライドだけは高いガキどもに死なない程度の待遇で作らせていれば、何とか食いつないでいける。受託側がサステナビリティの高いデザインとかウェブサイトなど、自分たちで提案などするわけもなく、またスキルから言ってもできるわけもない。そして、そのような触れ込みで構築されたウェブサイトが 5 年、10 年と継続して運営されていく保証もなければ、実例だって殆どないのだ。業界自体が 10 年そこそこの歴史しかないのに、数十年も継続して運用できるデザインとか CMS などというものは、世界中のどこにも存在していないのである。だいたい、ネットそのものが数十年後には姿を変えているかもしれないのだから。

なるほど、前世紀の終わりごろから今世紀のいつかまで世界中で流行していた「インターネット」なるものを保存するという意味で、シニカルな重要性を説いて回ることはできるだろう。かつて、「ウェブデザイナー」とか「ウェブディレクター」あるいは「システムエンジニア」や「ITアーキテクト」あるいは「ITコンサルタント」という職能があった・・・という皮肉な意味で重要なのだ。世界規模のネットワークに構築されたリソースをただの消費物としてしか提供できず、情報処理産業を労働集約型に落とし込めた過去の責任者たちとして、語り継がれてゆくかもしれない。

言っておくが、少なくとも自分でできる範囲のささやかな抵抗はしているつもりだ。僕は別に評論家でもなく、現にウェブ制作プロダクションの一員としてプログラマーなり管理職なりの役割を担っているし、その中で過ごしてきて、少しずつ希望に向かって行って欲しいという愛着もある。

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KAWAMOTO Takayuki

Mr. KAWAMOTO Takayuki
also known as philsci
(birth day: Sep 20 1968)
live in Osaka city, Osaka, Japan.

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