Scribble at 2017-07-08 11:19:26 Last modified: 2022-09-21 10:25:41

俗に「レッテル貼りは良くない」と言う。それは各論としてはそうだろうけど、判断とか理解つまりは思惟の経済にとって有効でもあるし、それぞれが好き勝手に断定してコミットすることにより、愚かな断定をした者が淘汰されるという社会防衛上の効用もある。つまり、レッテル貼りが良くないのは、そのコミットメントに自由(もちろん、それに伴う責任)がなくなることなのだ。選択の任意性がなくなると、コミットメントした結果に責任をとらなくてもよくなって、モラルハザードが起きる。これは社会防衛としては好ましくない。とは言え、生きていくために何でも本人が判断したり調査したり考察しなくてはいけないというのでは、集団全体の効率が下がって、これも社会防衛上の欠点となる。(もちろん、「社会」を防衛することは至上命題ではないが。)

しかしながら、レッテル貼りそのものを擁護すると、またぞろ「区別は差別ではない」式の bullshit に正当化を与えてしまうことになろう。したがって、レッテル貼りそのものを抑制することで個々の成員、ひいては社会全体がどのていどの非効率を被ったりリスクを抱えるかに留意しながら、擬制として「レッテル貼りは良くない」というスローガンを維持することも一つの見識ではある。しかし、哲学者として言わせてもらえば、認知的には全ての区別は差別であるという前提から考える方が良い議論を生むのではないかと思う。そして、人は個々の状況とか心境とか脈絡において、物事を区別するものだからこそ、その結果をあらかじめ予想し、誰かにとって不合理で不当な結果(それが差別と呼ばれている)となっていないかどうかを判断しなくてはいけない。もちろん、なにごとかを区別し、そしてそれゆえに何かを語ったり判断してしまってから後では遅いという場合があるから、区別は避けられないが、そこから差別に至らぬよう何らかの工夫は必要だ。

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