Scribble at 2017-10-20 09:57:47 Last modified: 2022-09-22 12:20:15

たまに Twitter でフォローしている何人かの女性が夫婦別姓について書いたり QT してるのを見かける。もちろん、僕は別姓でもいいし同姓でもいいと思っている。が、その理由はフェミニストがよく言う女性のアイデンティティを保護するということではなく、もともと名前にアイデンティティなど求める必要が無いと思うからだ。したがって、海外のように結婚を機にお互いが同時に姓を変えてもいいし、その時に新しい姓をお互いに名乗ろうと、あるいは別々の新しい姓を名乗ろうとかまわない。具体的に言うと、family_A + given_B と family_C + given_D が結婚するときに、お互いが family_E + given_A と family_E + given_D に改姓してもいいし、全く違う family_E + given_F と family_G + given_H に姓も名前も二人で同時にバラバラに変ってもいいと思う。個人が当人としてもつ「アイデンティティ」と、行政上の管理情報としてトレーサビリティを維持する identification は別であって、identification が保たれるのであれば、どういう任意の文字列に当人が「アイデンティティ」をもとうと、そんなことは自由だというのが僕の意見だ。よって、僕がいまの連れ合いと結婚するときに姓どころか名前も換えていいというなら、「菅原道真」とか、そんな名前に換えても不都合ないわけである。そんなことだけで、連れ合いが僕と菅原道真を取り違えるなんてことは起きない。

この根拠は単純で、僕は言葉の魔術説を全く信じていないというだけのことである。

言語哲学の一人の研究者として言えば、token なり文字列としてどころか、それらに付随する「意味」ですら、その指示対象と本質的な関係などない。クワインが言ったように、事物についてわれわれがどのように不正確・不完全ながらも反応するかという、行動主義的な仕組みがあるだけだろう。それは哲学的な指示の理論としてだけではなく、社会学的・人類学的・民俗学的な意味合いとしての文学的なセンチメンタリズムも認めていないということだ。しかし、それは僕がそう思うというだけのことであり、やはり社会学的・人類学的・民俗学的には多くの人がそういうセンチメンタリズムをもち、そして法律というのは多くの人々の内心や感情に大きく反しつつ長年にわたって維持されるものではないから、最大限で僕が信じるような自由があっても、そうしない自由だって保証されなくてはならず、そしてどういう氏名を選んでも不利益が生じないようにすることが「自由」を保証する制度全体の眼目である。

実際、僕の名前が「河本孝之」ではなく「森匡史」や「竹尾治一郎」や「中才敏郎」だったとして、それがいったいなんだというのか。こういう名前をもつだけで自動的に科学哲学や分析哲学を学ぶようになるわけではないし、ましてや大学教員になれるわけでもない。

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