2017年09月09日22時20分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-09-09 22:20:48

いま、哲学のサイトで公開する文章を書いている。もちろん、公開するために書いたり考えているわけではないが、フッサールのように書くことで考えるというスタイルを敢えてとっている。そのときに感じることを包み隠さずに書くことが目的だからだ。なにせ、テーマは「死ぬのが怖いとはどういうことか」というものである。

その一つの理由は、ヒトが意識をもつからだ。そして、発生論としてヒトが意識をもつに至った事情はあれこれ言えるにしても、とりあえず FPV が錯覚ではないという前提から初めて「じゃあどうするんだ」というアプローチが日本では、哲学だろうと認知科学だろうと生物学だろうと少ないんだよねぇ。意識は脳の働きの side effect だから「大したことではない」なんて言われても納得できるかよって思うのだけど、どうも論調が「気にしなくていいよ」みたいな下らない議論に終わっていることが多い。仏教の悪い影響なんだろうか。

僕も、大きな区別で言えばデネットと同じく、「意識は生き物にとって大して重要な機能ではないかもしれない」という問いに開かれていなければならないと思う。確かにそうでなければ、人類スケールのナルシシズムに陥ると思ってるんだけど、だからといって FPV において除外なんてできないだろう。FPV における恐ろしさをどう自分で納得するかを考えない限りは、何かの方法で意識をなくして悟りに至る訓練をするとか、怪しげなドラッグで気晴らしに逃げるか、あるいは悩みつくして精神障害に至るかしか手立てがないように思う。合理的に、納得できることなのかどうかという問いについて、厳格に思考したという事例があまり見られない。何かの重病で死に際して色々と考えた人々の文章は確かに重いのだけど、でも何かが足りない。やはりそれは、自分自身で考えて納得していないからだ。しょせん、哲学の問いは全てそうだと思うが、読書で納得することはできないだろう。

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