2017年08月13日23時47分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-08-13 23:47:27

ライトノベル業界を席巻する異世界転生ブーム 書店員がトレンドの変遷を解説

このところアニメやラノベでは「転生もの」または「異世界」が一つの流行となっているらしい。記事では表面的な解説しか書かれていないが、これはこれで社会学などのテーマにはなるはずだ。なお、社会学の博士号をもっているとか、あるいは書籍の売上や出版動向のデータについて詳しく調査しているとか、特に何かの見識をもつ証拠もない書店員一人に話を聞くだけでは、そら駄目だろう。昼休みに食堂でお喋りしているていどの内容しかなくても当たり前だ。このような素人の落書きていどを「記事」だの「メディア」だのと自称している連中は、日銭を稼いで逃げ切ったら勝ちだと思っているのだろうが、僕はそういう「ITチンピラ」には容赦しない。ここで(リンクするのは不本意だが)堂々と「バカ」であると指摘するページを掲載し続けることが、微力ながらでも哲学者として社会で一定の価値観にコミットする際の見識だと思う。我々のように利害関係も人間関係もない者が堂々とバカを「バカ」を呼ばずして、いったい誰がバカを「バカ」と呼ぶというのか。

さて、僕が見るところでは、このような設定が流行している一つの脈絡は「諦観」だと思う。あるいは、ラノベを書いたり読んでいる若者や、アニメを観ている若者、あるいはゲームを楽しんでいる若者にしても、大量の情報によって「現実」(それが錯綜しているという意味だとしても)を或るていどは自分たちなりに弁えながら、その現実から逃避するという狙いもあるのだと思う。

一つの目立つ要素は、主人公が少なくとも一度は「死ぬ」ということだ。まともな教育を受けている者であれば、ヒトが単なる生物の一種であり、病気や負傷などで死亡すれば、主観的には「無」と自覚すらできない無であることは常識の範囲だろう。仮にキリスト教や神道の家庭に生まれた者であろうと、それら宗教が壮大なスケールと歴史をもつまやかしあるいは精神安定剤であり、その壮大さと歴史ゆえに受け継いでゆく価値があるものだと納得するしかないと、どこかで割り切らなくてはならない筈だ。現代の圧倒的な質と量の自然科学の成果を前にして、いまさら死後の世界はなかろう。それこそ、本気でそんなことを信じている者こそが、洗練された宗教家からすれば精神異常者に思えるだろう。

つまり、かような異世界への転生というのは、どう考えても若者なりの気晴らしでしかなく、現実逃避と言ってしまえば終わるようなものである。しかし、なぜ似たような設定の似たような話が何度も作品として登場しては消費され続けるのかということに目を向ければ、単に「現実逃避」と指摘して済む話でないのは明らかだ。もとより、その「現実」に問題があるなら、若者の嗜好を「現実逃避だ」と指摘して得々としている者たちこそが、彼らをそういう嗜好にさせたり判断させている責任をもつかもしれないからだ。無論、僕もそう思っている。

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