2017年06月24日11時21分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-06-24 11:22:56

何度か、権威というものは擬制であっても必要だと書いている。つまり、或る人物の判断とか判断基準として参照される見解が十分に妥当な正統性をもっていなくても、他にマシな拠り所がないなら、何かを権威として仮に設定することも制度や社会を安定して維持するための知恵だと思う。もちろん、そもそもそれが維持するべき制度なり社会であるかどうかは別の問題ではあるが。

権威とは、或る人物の判断を他よりも優先させることである。そして、その利点の一つは、他の人の見解や判断を並べなおして比較し検討する手間や時間を省くことにもある。何か事案が持ち上がるたびに可能な答えを全て列挙して、それらを比較する規準についても可能な規準を全て列挙して、更にはその規準も・・・などとやっていては、社会制度はまともに運用できない。おおよそ経験とか教育によって、そうした理論的・形式的な後退を徒に続けないよう、我々は余裕のあるとき、端的に言って働き始めたり世帯の収入を担うようになるまでのあいだに、学んだり考えたり回りの人たちと話し合う機会を持つことが、そういう無駄な後退をせずに一定の水準で妥当な判断を下すための下地となる。したがって、同じ事案について同じように即座に応答する人々の間でも、バックボーンが異なれば、それが単なる感情的な噴き上がりや「脊髄反射」なのか、それとも一定の見識に基づく断定なのかは違うのである(それらを区別できるための効果的な方法は、例えば理由を尋ねることであったり、そこから想定される見込みを尋ねることだろう)。

もちろん、権威が一つの手続き的なショートカットとしての効用を担っている以上、そこには物事を吟味するという手順が抜け落ちるため、一定のリスクが伴う。したがって、権威は常に結果を評価して更新したり置き換える必要があり、自由に更新したり置き換えてはいけないという意味で「権威」という言葉を使っている者は、権威が何のためにあるのかを履き違えているのである。権威によって判断した結果に問題がない限り、その制度や社会は簡単に更新したり他の場当たり的な何かを置き換えてはならないが、権威そのものは結果に問題があれば即座に置き換えなくてはならない。そして、結果を評価するための基準にも権威があれば、そういう基準も置き換える対象としてよい。

このような権威という仕組みは、或る見解、あるいは昨今の流行り言葉で言えば「言説」にはない。権威は或る人物の判断について認めたり否認するものである。なぜなら、結果に対する「責任」は抽象的な言説や概念や記録にはとれず、人物にしかとれないことだからだ。そして責任を取らせることによって、同時にその人物が述べていた見解や、その意味するところの概念をも同時に否認できる。大学教員に知識や技術に関して権威をもたせるのは、彼らが馬鹿げたことを言えば実名で非難され、それまで権威を認めることによって可能だった書籍の出版とか雑誌への寄稿とか文化サークルでの講演が拒否されるようになり、学生からも教員あるいは研究者として尊敬されなくなるというペナルティをきちんと負わせるしくみが維持されることによってである。こうしたペナルティが適切に働かず、どこかの雑誌でものが書けなくなっただけで他の雑誌では書けるなどという甘い状況では、バカがどれほど杜撰で悪質な言動をしても「やり得」になってしまう。ひとたび権威を与えると、深刻な結果が出るまでは何らかの影響を与え続けるチャンスがどこかに残されてしまい、取り返しがつかなくなるのだ。

つまり僕が、擬制でも大学教員や政治家や官僚、あるいは僕らのような企業の役職者に権威や権限を与えてよいと言っているのは、一方で発言や判断を優先したり良い待遇を与える代わりに、常にその結果が評価されて、いつでも権威を否認されうるというフェアな仕組みがあってこそなのである。しかし、いまの官僚や政治家はおいそれと辞めさせられない。企業の経営者も簡単には首を挿げ替えられないし、大学教員もいまだに全共闘時代にもぐりこんだ無能な連中のせいで、とりわけ人文・社会科学は学科の有用性に対する世の中のバッシングを、そういう無能どもが退職・退官した後に教員となった若手の研究者が、就職難や研究費の縮小によって受けてしまっている。

こうした責任の不十分なとりかたでは、逆に権威も認め難いと考える人たちがいても当然だろう。だが、肉体派の右翼や左翼のように、政治家を殺したり、大学教授を集会に呼び出して吊るし上げるだけでは、はっきり言って何の意味もない。いや、意味はあるが場当たり的であって、その人物に大きなインパクトがあるだけなのだ。我々は誰か特定の人物に与えた権威や結果を問題にするだけではなく、権威というしくみを維持する限り、維持するための基準や手順の妥当性を問わなくてはならない。そういうことの時間や空間に及ぶ影響を考えれば、気の毒ではあるが政治家や大学教授の一人や二人が殺されたところで、それは端的に言って些事というものである。

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