2017年06月16日12時30分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-06-16 12:30:00

当サイトで歩行論をやると言っても、まだ端緒についたという段階でしかない。「よい」歩き方とか「正しい」歩行と言っても、健康増進に役立つとか、道徳的に賞賛すべきか当たり前とか、あるいは端的に言って道路交通法に従っているとか、幾つかの意味合いはあるし、その殆どの意味は文化や時代や科学の成果に応じて変わりうる。それぞれの国の通行規制なり人々の生活習慣を特定しない限り、時代や地域と無関係に「客観的に左側通行が正しい」などと主張するのは馬鹿げている。

ところが、このように書くと simpliciter であるかのように理解する人がいて、そもそも正しい歩行という概念そのものが成立しないとまで言うようになる。たいてい、そういう主張をする人間は、ものごとに例外があるという事実を「例外を中心にして」考えてしまう一部のセンチメンタルな社会学者のような人々だ。一律に語るだけでは掬い取れない人間の感情の襞といった、都内の無能な田舎者マスコミ関係者が大好きで、「昭和枯れすすき」が聞こえてくるかのような情緒的フレーズを梃子にしてものを考え、もしかすると生理的な誤差やエラーかもしれないものを無根拠に過大評価し、たいていは些末な記述を「分厚い」と称賛しながら蓄積することで満足する、「方法論的積読家」とも言うべき人たちが、常に物事をいたずらに複雑なものとしたり、理論化を拒否するように話をずらしたり例外扱いし始める。こうした人々には、コミットメントや擬制という発想がないかのようだ。

もちろん、議論や推論や論理の縮約、ひいては理論化という作業が一つの(彼らのお好きな表現を使うなら)「暴力」であることは認めるにしても、そのリスクを過剰に言い立てて些末な記録を積み重ねたところで、我々の知見は実は「積み上がって」すらいない。無能さや物事の限界を仕方ないと諦める多くの人を理解するためにディテールに拘るというアプローチこそが、そういうアプローチに依存してものごとの是非を端的に判断したり区別することから逃げ続けるという、実は「自由」や「中立」からは程遠い発想に他ならない。(これが仮に勝者の理屈ということになるなら、では我々はいったいお互いに足を引っ張り合ってどう生活を向上させたり、本当に保護したり助けなくてはいけない人々に手を差し伸べるためのリソースを確保し維持していけばいいのだろうか。)

僕が、街中を歩くという、多くの人にとってありふれたテーマ(もちろん、僕も将来は車椅子を利用するかもしれない。これは全ての人にとってありふれたことなのではないが)、にも色々な論点が関わってくると思っているのは、こうした事例でもお分かりいただけると思う。

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