2017年06月06日21時42分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-06-06 21:42:59

Twitter に書いてたけど、やっぱりまとまった文章を書こうとすると面倒臭いサービスだ。

些事はともかく、僕が考えてる「歩行論」は、生活の知恵や処世術あるいはサバイバルも含むので、例えばハンズフリーで通話しながら自転車に乗ってる人間は判断力が低下してるか、そもそも何かを判断しようともしないので、ぶつかるリスクを避けるには積極的に道を譲ったり避けるのが得策・・・なんてことは誰でも知ってて実行してるのだろうけど、相手におかしな優越感を抱かせるのは癪だと思ったりすると、こちらも子供じみた威勢の張り合いが起きてトラブルになりやすい。

でも、子供みたいな人間に優越感を与えてやるくらいのことは、あなたや我々が無事に生活できる価値と比べたらクズみたいなものではないのか。しょせんは何の権力も権威もないバカや子供が他人に安っぽい優越感を感じたところで、それは一時のものでしかない。それよりも、そういうバカに衝突されて我々自身が怪我をしたり何か重大な後遺症を蒙ったりする被害の方が、どれほど些細ではあっても我々自身の人生はもとより日本や世界や宇宙にとっての(もちろんたいていは誤差の範囲にも入らないていどだが)意味が変わってくるかもしれない・・・というていどに考えておく方が精神衛生にとってよいのではないか。

そして重大なことは、これは逆の立場でも同じことなのだ。我々が馬鹿げたことをやっているときは、相手が相手自身の身体や生活を守るために同じ理屈で一見すれば卑屈な態度をとっていたとしても、それは何ほどのものでもないということである。もちろん、これを一種の差別感情の萌芽として捉えることは可能だ。しかし、それを公言したり実際の価値判断や政策に反映させることは不当だが、「ものごとをそう考えておくことにする」という割り切り方まで禁止することはできないだろう。

では、どうしてこのような割り切り方は思考そのものとして非難されるべきなのであろうか。もちろん、このような思考は非難されるべきとされているだろうし、実際に非難される。しかし、それが何故なのかをちゃんと理屈にして納得できない限りは、異なる状況では再びどうにかして自分達の心のバランスをとるために「どうせあいつらは」という差別感情を引き起こして安心したがるという傾向が残ってしまうだろう。

たぶん、もうこのレベルになると歩行どころか一般論としてのごく普通の倫理学や差別の社会学になるのかもしれないが、街中を歩いたり列車で立つというありふれたことにすら、あれこれと論じるべきことがあるという一例になるだろう。

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