2017年05月22日16時10分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-05-22 16:10:18

経産省「次官・若手ペーパー」に対するある一つの「擬似的な批判」をめぐって

望月さんが指摘している「国家観や政治思想上の大きな分岐」のどちらを支持するかという点については、まず国家なり地方行政は「システム」を維持すること自体に注力すればよく、それぞれの事案を解決するのは個人や家庭や有志の集団になるだろうと思う。しかしリバタリアンは自分たちがそうするためにシステムの下支えがいるという点を軽視して、まるで法というシステムや経済というシステムなくして自分たちの裁量だけで世の中を動かせると思い込む傾向があって同意しない。それはただの厨二病だろう。

確かに、問題が起きたら紛争を解決する最終判断は最高裁判所であり、その紛争が刑法に関わるものであろうと個人情報保護法に関わるものであろうと、憲法の理念に反しているかどうかが最終の判断基準だ。これを自分だけで解決するなどというのは社会という仕組みを軽視した子供の発想だが、しかし現実に裁判を起こしたり、他人と交渉するのは個人であり、その個人を実際に助けようとする小規模な集団だろう。最後に国が動くのは、国が制度として支えようとする仕組みの正当性を保つためであって、個々人を国が救済するという構図が妥当だからではないだろう。そもそも「国」とか「行政」などと言っても、そこでも個人が動かなければどうにもならないのだ。

つまり、望月さんとリバタリアンのどちらにせよ、その国や地域で生きていくための権利や義務を定めて、それなりに安定した制度の運用をサポートしている社会システムを過大評価したり過小評価していると思う。したがって、「国家観や政治思想上の大きな分岐」とは言うが、そんなところが本質なのではないというのが僕の見立てである。そんなところが分岐点なら、中学生の公民の教科書と同じであって、つまるところ大きな政府か小さな政府かという違いでしかなくなるだろう。

それから、望月さんは記事の末尾でポーガムとかいう人の話を持ち出して、議論を無用に複雑なものとしている。このポーガムとかいう人物による貧困の区別など、議論に何の効果もない。英語の言い回しによくあるものだが、アップトゥデイトな見栄えや動静や特性をもつ社会現象が独特な何かだと勘違いして、「単にものごとへ名前をつけただけ」となっているのではないか。貧困に降格する可能性など、事業に失敗すればどんな大企業の経営者にもあるし、江戸時代の下級武士や商人や農民や手工業者、つまりは殆ど全ての人々にも同じリスクはあったし、みんなそれは知っていただろう。日本で、しかも今の時代に始めて起きたことでもなんでもない。

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