2017年05月16日18時44分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-05-17 10:06:29

「かぐや姫」に隠された恐怖の裏ストーリー 「竹取物語」は愛の物語なんかじゃない

文学に(英米文学にすら)何の素養もなさそうな外国人を連れてきて、自分勝手で奇怪な解釈を「グローバルスタンダード」などと称して語らせる芸風は、そろそろオンラインのメディアでは定番になりつつある。この人のことなんて調べる気もないけど、まぁ昔からイザヤ・ベンダサンとか、ポール・ボネとか、新聞記者やライターが外国人のペンネームで好き勝手なことを書く(たいていは日本特殊論なり DIS るなりの釣り記事)パターンはあるな。

あと、バカが鬼の首をとったかのように、欧米の童話は実はもっと残酷な話だったとか「再発見」してくれるパターンも見かける。何度も言うようだけど、新聞記事やニュース番組や時事評論の書き手の殆どがただの学部卒なんてのは日本だけだ。もちろん公共政策はバカを基準に最適化するのが、集票という意味でも立法や行政の観点でも「合理的」なのだが、マスコミまでもが率先して大して素養のないままとどまり続けて上方圧力になっているというのは、何か悲惨に思える。

まぁでも、僕らは幸運だ。或る意味での実験国家の一員として、特にアメリカやロシアや中国から生きながらえさせてもらってるようなものなので。パワーバランスが本当に壊れたら、こんな矮小な国家にまともな防衛手段なんてない。こうして、愚かな外国人にものを書かせては場当たり的なことを延々と続けて、一般庶民は隣国からミサイルが撃ち込まれようかというときでも夥しい種類の享楽に明け暮れていられるし、民族派を名乗る集団や保守を名乗る三文文士たちも「危ない、なんとかしなくては」などと自意識過剰なだけのマッチョをアピールしていられる。しょせんこの手の人々は、単なる暇つぶしに生活から文化や天下国家という言葉なり観念なり妄想を弄んでいるだけなのだが、我が国のような状況においてはそうした無内容でカスみたいな言葉でも売り物としては通用する。

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