2017年05月11日15時16分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-05-11 15:19:30

「ダイバーシティはコスト」の時代は終わった

寧ろ僕としては、ダイバーシティについて気軽に語る、こういう人々の論評こそ終わったと言うべきだと思う(ていうか、同志社で教えてる、組織論が専門の研究者なのか。酷いものだな)。

まず、こういう絵に描いたような机上の空論を弄ぶ人々というのは、企業について希望的観測を勝手に押し付け、少なくとも幾つかの妄想を抱いている。この記事に関連して取り上げると、その一つは、企業というものが公正や平等といった理念のために業務や組織や業態やサービスを設計したり変更しうるということ、そしてもう一つは、企業というものがそうしたお題目のためにわざわざ原資を保持しているということだ。これらはどちらも現実の企業を全く理解していない、お勉強が大好きで研究者になっただけの無能な社会科学者がしばしば抱き続ける馬鹿げた想定や理想である。

企業は、正義や平等を世の中に実現するための最善の方法でも必要条件でもなく、そもそもそういうことを目指すものではない。そして、これはもちろん論証を要するが、企業は企業としての事業継続性や事業価値の向上を果たすためには、正義や平等を目指してはいけないかもしれないのだ。そして、企業が本質的には真善美を目指すものではないということを、ただちに反社会的で不道徳だと断定するのは単なるイデオロギーありきの見方であって、正確ではないと思う。正義や平等を目指していなくても世の中に貢献する企業活動というものはありうる。企業の活動内容や機能と目標がどちらも倫理的な基準において同じであるか、少なくとも双方がベクトルとして同じ向きを指していなくてはいけないという想定は、現実的でもなければ社会のモデルとしても間違っており、それを制度的に強要するような社会は、結局誰かがやることになるのは確実なので、いわゆるフリーライダーの問題が発生する。それぞれのエージェントがものごとを改善するインセンティブを失ってしまうだろう。

次に、現状で取り上げられている事例を見ると、このような「特別なことをする必要がある」施策というものは、もちろん余剰の人員を受け入れたり教育する余裕がある大企業や、中小企業でも泡銭がいくらでもある化粧品会社やゲーム制作会社に限られる。確かにそういう余力のあるところから始めるのが現実的ではあるが、そうした業容やファイナンスの事情を無視して事例を集めて「分析」してしまったり安易に成功事例として紹介していると、要するに「そういう特定の業界がやる、プレゼンスや CSR 目的の綺麗事の一種」と見做されるようになる。そして、こうした教員が大好きな「戦略的な」諸々のクズみたいなフレーズを散りばめた企画書や会社パンフレットが業界内で流通することになり、それらの企業の役員や人事部がダイヤモンド社や翔泳社あたりから「ダイバーシティ3.0」だの「クリエーティブ・ダイバーシティ」だの「戦略思考のダイバーシティ」だのといった、クズのような本を出すことになる。恐らく、この記事を書いているような二束三文の研究者も、似たような本を日経 BP あたりから出すのかもしれない。

しかし、過剰にリアリティを強調する意図はないが、われわれ企業の役職者が直面している経営の問題は、そんなところにはないし、人事においてダイバーシティを採用することが解決するとも思わない。自社に外国人や身障者を採用して営業利益が倍になるくらいなら、とっくの昔に全ての企業が採用している筈である。

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