2017年04月28日12時05分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-04-28 12:05:44

How to have a better death

煎じ詰めてしまえば、終末期医療を充実させて、死にゆく人々のケアが大切だという話にすぎない。これはもちろん人が死すべきものであるという前提から出発する考え方だ。そして、こういう前提を崩して議論することが一般に難しいとされる理由は幾つかある。その一つは、このような前提は或る意味ではセンチメンタリズムとも言い得るが、リアリズムとも言い得るからだ。人が死すべきものであるという前提がセンチメンタルであるのは、多くの人がこれを当然のこととして、それ以上の可能性や知的探求を求めないという点にある。しょせん、あらゆる医療や科学技術の粋を尽くし、いまならシンギュラリティが達成されたとしても、人は死から逃れられないであろうし、少なくとも自分が不死となることはありえまいということだ。そして、もちろんこれは現実に色々な可能性を考えたり調べた結果としてのリアリズムにおいても、多くの人は正しいと見做している。そして、それだけ調べても駄目だったのだから、もうこれ以上は調べる必要はないと、これまた多くの人が以降の人生をセンチメンタリストとして過ごすことになる。

実際、或る事案にかかわることがらを自分自身で調べたり考えることなく、いやそれどころか他人が調べた結果に関心をもつこともなく、いま自分が考えられるだけの理由や印象によって物事の是非や当否を決めてしまうセンチメンタリズムは、端的に言って快適だ。そもそも、そういうことを何気なく無自覚にやっている大多数の凡人にとっては、「快適」という自覚すらないだろう。逆に、そういうことが「快適」であり、しかも「快適」であるにすぎないと知ってしまったり考え付いた人にとっては、では他にどういう可能性があるのかを考え始めると、それは避け難く面倒なテーマとなって、もしかすると頭を離れなくなるかもしれない。恐らく、これは哲学という学問に携わるようになるきっかけの一つなのかもしれないが、それを敢えて自分で引き受けたり耐えようと思うかどうかは、これも各人の自由だ。そして、死にゆくうちに何かを見出すという、個人にとっては恐らく生涯をかけた自意識とも言うべき課題に取り組むべきかどうかの決断をするかどうかが、こういう話のポイントであるように思う。

ただし、やはり哲学をすること自体が自足的な欲求の解消になってしまっては、それこそくだらない意味での自意識プレイになってしまう。したがって、死ぬということ自体を生物学なり医学なり生理学なり、あるいは既存の宗教学や芸術にも尋ねる努力が必要だし、それが哲学することの有意義なところだと思う。この自由さを自分自身で抑圧するような枠組みを自分自身で開発してしまう人は、要するに何をやっていようと自意識、つまりは(多くの場合に「宮台さんが言うところの」と言い添えることはあったが、僕なりの理解を書き下すのは初めてかもしれない)「他人や自分が自分自身をどう理解し位置づけるのが都合がよいと思っているかという観点から逃れられない地点でものを考えること」になってしまう。

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