2017年03月21日11時56分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-03-21 11:56:30

だれかの設定に基づくアニメの話だけで、一般性ある「自己/自我」の話はできない。, 2011/6/27

自己というテーマはおもしろいし、それを考えるうえで、アンドロイドや人形——押井守が好きなテーマ——に対する人間の態度が重要、というのは事実。でもそれぞれのレベルで何を語らせるかが重要。小説やアニメの登場人物の行動、学者の単なる感想文、多少は説明に使えそうな仮説、実証的な裏付けのある理論、それらをきちんと分けないと、著者として何に何を説明させたいのかがさっぱりわからず混乱するばかり。

ところが本書は、それらをすべていっしょくたにして、草薙素子のXXに自己のナントカ性が示されているのという話を延々と続ける。でも基本的に、アニメの登場人物が何をしようともそれは押井守がそういう設定にしたからではないの? そしてそれが自己についての一般的な議論としてどこまで展開していいの?

サブカルを題材に哲学のテーマらしきものを哲学っぽく議論するというのは、もちろん通俗書として大昔から大勢が口にしたり本や論説を書いている。そして、昨今では「映画の哲学」や「演劇の哲学」を始め、分析美学だの何のといった応用哲学と、そうした学部生のレポートみたいなお話とが混在している。しかし、山形さんが明快に述べているように、アニメの原作者が(仮に哲学をやっているとして)どのていど明確に自分自身のテーマとしてものごとを問い、答えようとしているかという分析をした上でなければ、アニメの登場人物が「偉い人には分からんのですよ」と言ったくらいのことで労働衛生や社会福祉について何かが語れるものではない。それは、手っ取り早く誰も扱っていない題材を使って出版業界でのイニシアチブを取り、アカデミズムの真似事がしたいだけの自意識であろう。とりわけ在野にはその手のルサンチマンに凝り固まった人々が数多くいるため、チャンスがあれば自分の興味にしがみついて「自らこそ当該のテーマについて語りうる(そして誰よりも先に語っていた)唯一の人間である」と思い込みたがっている。それは、同じアマチュアではあるが僕の思うところでは歪んだ自意識でしかないし、とりわけ哲学や数学や宗教などの分野においては一種の精神障害に移行しやすいため、素人にこそ落とし穴にはまらないための対策が必要であろう。それは、皮肉なことかもしれないが、素人であるということに甘んじるのを止めることでもある。

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