2017年03月18日22時31分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-03-18 22:31:05

僕は、ことあるごとにローティの rational reconstruction vs. historical reconstruction を持ち出している。そこでは、古典解釈ばかりに専心して他人の「真意」とか「全体像」なる、はっきり言って哲学の概念として考えてもデッチ上げではないかと思えるものを大義名分にしているような人々よりも、アナクロだ無知だ無教養だと言われながらも自分自身の興味や関心や責任感(そして場合によってはプライベートな強迫観念とか、あるいは日本の外国語秀才に多いただの自意識とか)でテーマを掲げて哲学を押し進め、古典の成果を同時代のプロパーと同等に扱う人々の潔さに惹かれると述べてきた。しかし他方で、古典の研究は自らの拠って立つ論拠を再考したり固めるために必要な作業であり、簡単に言えば思索や研究プロセスの誠実さを守るために求められる筈だとも書いた。それに対して、特に科学哲学や分析哲学では議論を押し進めることに長けてはいても、まるでネットイナゴのように流行でトピックを渡り歩いては業績を重ねてゆき、その果てに何かが見えるかもしれないという「冒険者的な哲学」に身を投じる、一種のナルシシズムのようなものに退廃してきているように見えるのだ。どれほどエレガントな自然科学の理屈をあれこれと弄繰り回してみても、我々科学哲学の研究者は結局のところ哲学に携わるのである。

そういう議論を超えたところにいるのがポストモダンの人々ではある。僕も高校時代はフーコーやデリダや国内の「スター」が書いたものを読んで、一定の影響は受けた。しかし、国内の亜流は取り合う必要などもうない。その理由は幾つかあるが、彼らは要するに、哲学史や思想史のお勉強を疑似体験として済ませてから、「オープン・クエスチョンのところまで到達しましたので、欧米に始まってアジアや日本の尺度を相対化します」みたいなことを、たかが凡人のくせにショートカットよろしく気軽にできると思い込んでいる節がある。それゆえ、チベットでつまらない修行なるものをやったていどで思想家を名乗っては、オウム真理教を何かのインパクトゆえに擁護し、いまでは大阪近辺のイベントで「アースダイバー」がどうとか、新しい科学がどうとか、40年くらい前にアメリカの学生が麻薬でおかしくなった頭で口走っていたようなことを岩波書店や朝日新聞を使ってバラ撒いているわけだ。もちろん、鮎川哲也の劣化版みたいな詩人とか、自称「教授」を名乗っている通俗音楽家とか、要するに都内でクダを巻いている周回遅れの左翼どもも同じようなものである。こういう連中が日本の論壇とか言論とか人文・社会の出版業界に一定の影響力を持っているわけである。

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