2017年03月09日10時20分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-03-09 10:20:46

高校のタブレット導入、半数が「活用できず」 その原因は…… 旺文社調べ

タブレットを校内に1台以上導入している高等学校は約3割、そのうちの半数が学校教育に活用できておらず、教える側のスキル向上が課題である──旺文社は3月8日、高校におけるICT機器の活用状況調査の結果を公開した。

これは教育全般に当てはまることだと思うけれど、教育や家庭のしつけや地域の青少年の扱い方というものは、個々人の対人関係というミクロなスケールから国家というグローバルなスケールに至るまで、悪循環に陥りやすいと思う。いったん悪循環が始まると、「悪循環に陥りやすい」ということは、少し改善しても元に戻ってしまいやすいということなので、長期間に渡って有効な結果を残して全体の水準を引き上げるのが非常に難しいということだ。なぜなら、良い結果を残すためには、生徒や学生の能力や生活環境が十分に安定して良好でなければいけないので、そもそも内戦が続いている国や圧政が敷かれている国では望むべくもないが、いたずらに低俗なライフスタイルが自由の名のもとに蔓延っており、そうした低俗化への同調圧力が強い日本のような国でも、教育の良好な効果を引き出すことは難しいと思う。

日本ですら教育が悪循環に陥っているという理由は幾つかある。まず、これは教育にとって不可避的または必然的というわけではないが、大衆化が進むに連れて教育を受ける側が全体として劣化してゆくのは自然なことだからだ。どこの国でも教育は知識の場であり、宗教的あるいは政治的な権力や権威と結びついているため、教育を受けられたのは限られた上流階級の人間や、一部の例外的に才能を認められた人間だけだった。近代以降の大衆化が進むと、はっきり言って高等教育を受ける必要があるかどうかも分からないような人々が高校や大学へ進学するようになる。とりわけ、第一次産業が衰えて第三次産業に参入する企業なり労働力が増えてゆくと、つまるところ採用の基準が学歴となる(なぜなら採用する方も似たような凡人なので、個々人の「能力」や「人柄」などを正確に判定する素養など実はもっていないからだ。上場企業だけでも、人事部に所属する人員の何割が社会心理学や労働衛生について最低でも修士号をもっているか数えてみるとよい)。アジアの中で日本がノベール賞の受賞者を数多く排出したり、国際的な調査の比較で一定の結果を残しているのは、単に内戦や圧政といった極端な政情不安が長期間にわたって起きておらず(安倍政権を「圧政」とか「ファシズム」だと気軽に呼ぶのは勝手だし、些細な変化のうちに芽を摘むべきだという理屈も分からないではないが)、自ら積極的に精力を出して学んだ世代や彼らに直接の指導を受けた世代の殆どの人間がエリートだったからである。有能な人材しか大学にいない時代においては「大学教育が有効である」というのは、殆ど自明の結論であろう。かたや、コピペや Photoshop 編集で博士論文を書いた後に実験室へ割烹着を持ち込むような手合いが最高学位を手にできる時代にあっては、僕のような者でも神戸大の指導教官から「君の修士論文(probabilistic causation の論文)を手直しすれば博士号は出せる」と言われたくらいだから、大学教育の有効性を疑われるのも当然であろう。在籍している学生の平均的な能力(もちろん現在でも有能な学生はたくさんいるが、あまりにも無能が多すぎるので、平均すると彼ら有能な学生の存在は誤差ていどの意味しかない)がまるで違うのだから。

さて、上記の事案では特に ICT を学校で活用するという話になっているのだが、教員の質が低い状態だと、悪循環になるのは自明であろう。仮に優秀な学生が結果を残したとしても、それはただの偶然である。そういう有能な人物は、恐らく学校教育など受けなくても同じていどの結果は残せる資質がある。とは言えば、そういう人物の大多数は特定の分野で一時的に良い結果を残したというだけの秀才でしかなく、人の生き方や考え方の指針としての思想というレベルでは無知蒙昧なので(それは「哲学」とは違うので、もちろん哲学やフランス思想をお勉強しているからといって、その意味での「思想」において長けているなどということは全く無い)、後から勘違いして学校教育を一般論として否定するような自意識の議論を口にするようになって、「誰それの文明論」などと東洋経済やダイヤモンドや文藝春秋あたりから出版して些末な人生を終えるのが関の山である。

この場合に、昨今の教育関係者は、子どもたちは生まれながらにしてモバイルデバイスやオンラインサービスを使っているデジタルネイティヴだから教師よりもリテラシーが高いと勘違いしやすい。簡単に言って、「デジタルネイティブ」とは単なるオンラインサービスの「ユーザ」のことであって、IT という産業そのものをリードしていく能力があるという意味では全くないし、その必要条件すら満たしていない。単に利用者、購買層、顧客としてサービスをうまく使えるからといって、ネットワーク通信に関するトポロジーの数学理論を(数式として記号操作できなくても直感的なレベルにおいてすら)理解しているということにはならないし、暗号処理に関わる整数論や代数系の素養があるということにはならない。よって、そういう子供の中から次世代のビル・ゲイツやスティーヴ・ジョブズが生まれたり、Google や Facebook のような事業を興す人物が出てくると期待するのは、数百光年離れた惑星で生命が誕生するのを期待するようなものであろう。

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