2017年02月23日21時19分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-02-23 21:19:25

ここ最近、帰宅する途上で自転車に乗った人がいきなり大声を上げる場面に出くわす機会が増えた。後ろでそういうことをされると身構えたりするわけだが、ハンズフリーで電話あるいは音声メッセンジャー・サービスを使って会話している連中である。また同じく、特に女性は携帯やタブレットを覗き込みながら歩道を我が物顔で直進する人が増えた。向きを変えるのに多大なコストがかかる老人ならともかく、20代や30代で他人に道を譲らせるなど情けない。30年前のメッシー君やアッシー君がいた世代の母親に育てられた、単なる傲慢をフェミニズムと混同したり、「おんな」なら何か不道徳な行いをしても(男からは)免責してもらえると思い込んでいる阿呆だろうか。

こういう人々は、もしかすると本人たち自身は「歩行」という無駄な時間の有効活用だと思っているのかもしれないが、迷惑がかかる多くの他人の行動する効率は落ちるわけであって(一人を多数が避けなくてはいけないのだから)、収支では社会全体でマイナスだと思う。こういう、主観の範囲、あるいは「セカイ系」と言ってもいいのだろうが、そういう凡俗の推論の力や動機づけが及ばない範囲では「それなりに合理的」な部分最適化は日本人の得意とするところだが、凡俗の思考が及ばない範囲や外国なども含めた文化的に異なる範囲を含めたスケール、あるいは時間としても長期に渡るスケールにおいては、もちろん日本人に限らず凡俗の思考など全く及びもつかない結果となることが多い。そして、そういうことを指摘するのが学問の役割ではなかろうか。

また、特に日本の凡俗は「仕事」とか「愛」とかその場の人間関係とか、ともかく自分自身の責任を免れる言い訳がどこかに見つかるようなお膳立て、つまりは大文字の観念にしがみついてさえいれば、公衆での無作法を免責されるかのようなストーリーや空気が大好きなので、為政者にとっては誠に扱いやすい。宗教を政治に組み込む必要もなく、民衆が勝手に観念なるものに支配されてくれるのだから、こんなに楽な支配手段はなかろう。かつて、「管理されたがる人々」というフレーズを使った文筆家がいたけれど、まさに同じことだ。

とは言え、僕は「本当に効率的な世の中」を無闇に志向しているわけではない。たとえば、今日も通勤の途中で大勢の人が行き交う場所で車椅子の人を見かけたが、こうしたハンディキャップを負っている人々がいるのはありふれたことだろうし、彼ら自身には(そうなった原因が生まれつきであろうとなかろうと)ただちに現状を変える手段がないわけなので、社会として彼らをサポートすることには道徳や精神文化において責任があろう。また、そうしたサポート自体が尊ばれる筈でもある。しかし、ハンズフリーで大声を出して会話するキチガイや、ケータイを眺めながら道を直進する半端者の事情を斟酌する責任など社会にはない。それは、或る人々(肉親が怪我などで病院に運ばれたとか)についてはプライベートな事情を斟酌してもよいという条件を、「プライベート」という一点だけで自分自身のあらゆる行動について弁解や正当化の根拠にできると思い込むセンチメンタリズムでしかない。

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