2017年02月20日11時11分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-02-20 11:11:27

万引犯の画像公開は「自衛」か「人権」か!? 専門家「人権侵害」の見方に小売業界反論…常習犯「ブラックリスト」構想も

まず原則から言うと、日本は法治国家であって、一般市民が他人の罪を判じたり、刑を決めたり、罰を下す権利はない。これらは「罪刑法定主義」という、法学部を出ている人間なら1年次で誰もが教えられる大原則であって、国家を成立・維持するために必要な立法・司法・行政の三権ですら、この原則に反しないように権限を分けていると言いうる。もちろん、その場で万引きした人間を取り押さえるという私人による逮捕権は法令で定められているが、明確な証拠もないのに他人を犯罪者呼ばわりしたり写真を公に掲載する権利はない。したがって、「店側の切実な思いは理解できるが、法的には『やられたらやり返す』という私的制裁は許されない。店側は被害に遭ったときには司法手続きにのっとって被害を申告すべきだ」という近大法学部の辻本典央さんによる解説は、特に法学部を出ている人間にとっては基本中の基本と言ってよい。もちろん罪刑法定主義そのものの是非を法律学のテーマとして議論してもよいが、「忘れた」と言うような人間は、法律学の学士号を大学に返上しなくてはならないと思う。

もちろん商店主にしてみれば、万引きは可能な限り押さえ込みたい脅威である。そもそも「万引き」などと軽々しく呼んでいるが、これはれっきとした窃盗罪であって、「万引き」と称している行為だからといって何か気軽なことをやっているわけでもなければ、情状酌量されるわけでもない。しかし、特に子供にとっては一種のスポーツ感覚や肝試しのような気軽さで行われる場合も多く、記事で紹介されているように、認知件数の11万件を大きく超えて物品が盗まれているだろう。そして、これは「なんと厳しい世の中よ、ルルルー」などというテレビ番組的な(傍観者として演出する)センチメンタリズムで言い訳したり、凡庸な社会学風のルポタージュごとき著作物を山のように書いたところで解決するような事案でもない。

しかし、このような状況にあって「自衛」という考え方を許容することは、やはり非常に危険である。第一に、大多数の人間は凡人であり、何か特筆するような素養もなければ、いっとき夢想された集合知のように集まって協議したり、色々な意見を集約して判断したりなどしない。つまり、自衛を認めるということは、凡俗の為すがままにさせるということであって、つまるところ(テレビ的な言い方を敢えてすれば)『野生の王国』である。もちろんこう書いている僕自身も「凡人」の一人であり、これは何も大多数の人間が(どこかにいる天才や優秀な人間ではなく)劣った生き物として信用に値しないなどと論じているわけではない。そうではなく、およそ全ての人間が(全てではなくとも、それぞれ一部において)信用・信頼に値しないからこそ法律があるのだという、重要なポイントを理解しているかどうかの問題なのである。なお、「信用」と「信頼」を区別しているのは、対人関係において役に立つといった利害関係での「信用」と、必ずしも自分と利害関係があるかないかは不明だが、ひとまず同じ人間として予測不可能な挙動をしないという生物学的な意味での「信頼」という二つの意味があるからだ。

こういう場合に、法曹と技術者と経営者の三者が民間で、つまりは行政の力を借りずに法律の範囲において効果的かつ速やかに解決するためには、どういう考え方を採用すればいいだろうか。「自衛」というアイデアを許容してしまうと、違法だろうとなんだろうと凡人はやりたいようにやる。そして、合法な仕組みさえ作ってしまえば、使う側の店舗が違法な使い方をしても開発側は責任を回避できるという発想で開発されたのが、某顔認証防犯システムであった(たとえば、店舗側で客を撮影するにあたってオプトインの手続きを採らないことは、このシステムの瑕疵ではないため、開発主体は責任を問われない)。しかし、このシステムが高木浩光氏ら「プライバシーフリーク」によって取り上げられてから3年以上は経つと思うが、結局は解決策がない。それは当たり前で、万引きどころか既存の客も離れてしまうようなオプトインなど誰もやろうとは思わないからだ。

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