2017年01月30日11時26分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-01-30 11:26:00

酒井さんがポイントしていたので書誌情報だけ眺めてみた。昔からこの手の研究とかルポタージュって山のようにあると思うんだけど、エロとか差別とか、この手のアンタッチャブル系のネタは社会学を標榜する人たちが「体当たり取材」とやらで本にはなるにしても、結局は学術的にもマスコミ的にもキワモノ扱いで終わる。

マンガ的というか、勧善懲悪の主人公といったヒーロー像としてのヤクザなんてものは、それこそ江戸時代の当時であっても妄想の産物なわけで、実際には単なる犯罪者集団だ。で、それを「社会のせいだ」とか何とか言って、彼らを排除するという思想の批判を一生懸命やってきたのが社会学者なんだろう。概念や理屈としては分かる。しかし、目の前で不法が行われていれば、当然のように止めさせる(べきだと思う)というのが否定し難い良識というものだし、もし自分の肉親が何か重大な危機に見舞われるなら、当然のように彼らの行いを食い止めようとする人も多いだろう。僕だってそうだ。僕らは、なるほどヤクザに同情的な物書きが言うところの「社会」の一部ではあるかもしれないが、個々に暴力を振るわれたり金をせびられるほどの何かを彼らにやっているわけでもない。つまり、「社会」などという御大層な言葉や概念を振り回している方が甘えているのだというのが大方の理解だろう。

もちろん、それは逆に個々の人々について僕らが考えたりやることについても当てはまる。僕らも個々の人たちを問答無用で虐げる正当性はないし、何か正当防衛や不安から彼らを遠ざけるとしても、それは彼らが「ヤクザだから」なのではない。目の前にいる個々の人々が、具体的に危ないことをしているからこそ遠ざけるのだ。したがって、彼ら自身もヤクザであることに自意識を見出すといった倒錯した思考をやめてもらいたいというのが僕の第一の感想である。人間にヤクザか、ヤクザでないかという判断を求めるようなアイデンティティの問題など、もともとないのだ。たぶん、この本にも色々と書かれているのだろうとは思うが、暴力団だろうとチンピラだろうと、そういう生き方をするには色々な経緯や目的や動機や事情があって、こんなことは他の生き方や職業についても同じように言えるていどの複雑さがある。そして、そういう複雑さを複雑だなぁと感嘆してみせることしかできないのであれば、社会学は高度な記録手法ではあるかもしれないが、それを超えるような力はないと言わざるを得ない。

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook