Scribble at 2017-04-20 09:54:11 Last modified: 2022-09-20 10:24:36

読書について書いた論説では、実はもっといろいろなことを書こうと思っていた。とりとめがなくなるので書いていないが、ここで少しずつ取り上げてから、論説の方をまとめてアップデートしたい。ということで、読書の際にメモをとることをお勧めしよう。

メモをとらない読書が駄目なのは、有限である他ないヒトの記憶力という生理的な限界だけが理由なのではなく、内容を覚えるほどのインパクトがない限り、たいてい読書というプロセスそのものは、読んで自分が感じた印象を記憶するだけに終わってしまうからだ。簡単に言うと食事と同じことであって、喜怒哀楽という反応の記憶が残るだけなんだと思う。それゆえ、時間が経つと何を食べたかを忘れるのと同じように何を読んだかも忘れるというわけだ。また、何かを記憶にとどめていたとしても、「うまかった」という反射の結果だけだから、「うまかった」という結果から「何を食べたか」という原因は遡れない。同じように、或る著作を読んで清々しい思いをしたとか腹が立ったという結果としての印象は残るかもしれないが、どういう議論や物語を読んでそう感じたのかという記憶はさほど残らない。自分が、そう感じたという自分自身に起きた出来事の方が、誰にとってであれ重要だからだ。

恐らく、そういう特性を分かっている書き手は、記憶に留まりやすいストーリーを書こうとするかもしれない。学術書でも同じアプローチは可能だと思うが、しかしそれは論説の本質ではないのだから、その手の技巧に拘るのは本末転倒というものであろう。そして、我々にはメモをとって強い印象を受けた内容を正確に記録するという知恵があるのだし、そういう知恵を活用するべきだ。それを面倒臭いといって蔑ろにするのは、恐らくは昔の「読書百遍義自ずから見る(あらわる)」といったセリフを曲解して、本というものは単に何度も読みさえすればよいものだと思い込んでしまうからだろう。しかし、そんなことは格言と同じく百回ていど読み返した人間だけが是非を判断できるのであって、同じ経典を読み返していればいい僧侶などとは違って、われわれは同じ本を何度も読むほど暇はないし、そうするべき価値のある本も実は殆どないと言える。

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