Scribble at 2020-09-29 14:18:31 Last modified: 2020-09-30 09:00:17

アマゾンの書評から都内の物書きに至るまで、とにかく京都学派、とりわけ西田幾多郎を称揚する人々が昔から一定の数だけいるらしく、それなりに知識社会学のテーマとしては何か得るものがあるのかもしれない。もちろん哲学という学問の導入にあたって格闘した先人の一人として敬服するだけの人物ではあるが、純粋なんとかを初めとして、哲学書を手にするようになったばかりの中高生が振り回すキラキラ・ワードのごとき造語を振り回す段階の人々であったという評価が妥当だろう。もちろん、そういう愚直な段階も必要だし、或る意味では次の段階として多くの現代のプロパーでも陥っている自意識プレイや自己欺瞞としての哲学研究(のフリ)も必要なのかもしれないが、そこで止まっている限りの人物から《他人が》何かを学ぶべきだとは思えない。

それに、とりわけ西田や田辺といった京都学派の著作をやたらと尊ぶ哲学愛好家の多くは、そのコメントの無内容さから判断すれば、申し訳ないが「高尚な」(と当人は思っているのかもしれないが)話題についてあれこれと語っているだけのナショナリストでしかない。日本語で読める著者でもこれだけの人物がいる、というわけだ。つまるところ、そうした人々の大半は外国語(ラテン語やギリシア語ではなく、ロシア語でも中国語でもいい)を勉強していないため、その必要がなくても済む言い訳を常に探しているのである。そして、生命論の愚にもつかないエッセイを書くだけが取り柄の、科学者としては業績も尽きて、あとはすれっからしとして出版業界で生きているだけの人物による通俗本などから入って、日本にもこれだけの人物がいると保証してもらっているのだから、なおさら外国の思想など知らないくてもいいというわけである。それゆえ、西田を称揚するアマチュアの大半はハイデガーもベルクソンも読まないわけである。

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