Scribble at 2017-09-02 11:41:34 Last modified: 2022-09-22 10:21:26

『138億年の音楽史』(浦久俊彦)という本を見かけたときの軽い違和感は、最近のアマゾンのレビューを読んで解決した。ただの「情報処理」本ということで、それまでに著者が読書で集めた薀蓄を書き並べただけの疑似科学本らしいから、読まなくてもいいと分かったからだ。前野隆司さんの新刊『人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』も、ざっと眺めた限りではかなり失望したのだけど、意識などないとか色々な議論を尽くしても、彼は「あとがき」では再び「やっぱり死ぬのは怖い」と書いて、詩のようなことを書いて終わっている。本人のプライベートなカタルシスのために公に文章を出版して他人に売りつけるとは驚くべき傲慢さだ。それもこれも、死んでしまえば終わりだからなのだろう。自分の墓に唾を吐かれても、死んだ人間にとっては痛くもかゆくもない。だって、死んじゃってるんだから!

人の文明というものは、本質的には自然を恐れるがゆえに抵抗する努力の結果だ。それを諦めるのは仏教のように一種の達観だが、僕はそれは一種の錯乱状態、もっと言えば自発的な精神疾患だと思う(もちろん、ポストモダニストの言葉を引くまでもなく、だからといって「いけないこと」だとは限らない)。全ての宗教や娯楽は、それが結局は凡人の無力さを忘れさせる気晴らしであることを、巧妙で壮大な言葉や礼儀作法や薀蓄の体系とか歴史的経緯の膨大な記録で誤魔化してきた。もちろん、これまでのところ、そういう気晴らしがなければ色々な成果がもたらされなかったという事実において、文化や娯楽の類にも「振り返ってみれば確かにそれが必要だった (sine qua non) 系の『原因』」として意味があったと言えるが、もちろん必要条件である保証など全くないんだよね。

哲学の通俗書、もちろん郵便がどうとか、動物的ポストモダンがどうとか、あるいは小平の高速道路がどうしたとか暇と退屈がどう、飲茶だかウーロン茶(そういうハンドルの奇妙な掲示板運営者がいたよねぇ)だか、それから他にも色々といるけど、その手の通俗書を公にしている人々が根本的に哲学というものを分かっていないのは、その手の「情報処理」になど何の意味もないということだ。書いている当人にとっては原稿料として何ほどかの利得はあろうが、読む側に「気づき」などという偶然の成果を期待したところで、その殆どは勉強不足の人間によくある勘違いに過ぎない(「過ぎない」と切り捨てることが文明を効率的に押し進めるための方法論的な勝利者史観だ。凡人のやること全てにいかほどかの意味があると言って、「世界で一つだけの花」だと金八先生みたいに扱っても、総体としては無自覚なまま上に立って評価している連中にとっての自己満足でしかない)。

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