クリティカル・シンキングについて

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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Last modified: 2011-03-06 01:20:46.

最初にこの手のものを読んだのは、哲学の本だった。確かピーター・ギーチの本だったと思う。幾つかの論証パターンや虚偽のパターンが紹介されていた。もちろん、それ以降もたびたび論証の本は読んでいるので、クリティカル・シンキングにかんする書籍の出版ブームと言える昨今の状況は、それなりに興味深い。だが、ニーズはもともとあっただろうし、80年代に関東ローカルの番組でディベートが流行った頃にも何冊かの本は出ているので、「新しい流行」として興味深いわけではない。

そもそも、虚偽論法のパターンを覚えるだけでは不十分だということは、少しでも論理学やクリティカル・シンキングを勉強した人なら分かるはずである。したがって、学んだ人が感想や論評を書くことに異論はないが、程度の低い数学書と同じように、説明をすっ飛ばして「センス」とか「ひらめき」などと言って片付けるのだけはやめてもらいたいと思う。なにせ、日本でも「クリティカル・シンキングをどう教えるか」という研究がはじまっているし、アメリカではクリティカル・シンキングを学ぶだけではなく、どう活用するかという協会まで設立されているのだ。

それはつまり、論証あるいは論証まがいのパターンをどうやって当てはめたり見つけ出すかということは、別のプロセスなのだということである。Twitter で書いたことだが、

たいていの仕事ではおなじみのことなのだが、「そんなこと最初から分かってるよ」的な状況をどう変えるかがディレクターの本当の力量なんだと思うのよ(笑)。クリシンにハマるのもいいけど、現実とのギャップに耐える力(別に唯々諾々と従えとは言わないが)はクリシンは培ってくれないよ。

と書いた意味合いも、本質的には同じだ。

ウェブサイトの制作・構築という仕事は、相手が大きなクライアント企業になればなるほど、実際には企画・広告部署の単なる予算消化で RFP が出てきているだけという事情にもかかわらず、何かキャンペーンをぶち上げる必然性があったかのような提案書を書かなくてはならないことが多い。これはこれでクリティカル・シンキングのターゲットとして論じうることには違いないが、「筋が通らない」ことだけをもってして何でも切り捨てることは、恐らくクリティカル・シンキングの application としては的を外している。コンペでもなんでもよいが、クライアント企業の担当者に提案する場で、「そんな建前は嘘であり、自社の予算の無駄遣いなのでやめるべきである。実際、公開までこれだけの工期しかない状況で場当たり的に準備したキャンペーンが成功した事例は殆ど無い」と提案するべきかどうかを考えてみればよい。すると、もし発言する当人が利害関係のある企業のサラリーマンでなかったならば、実は誰でも言えることなのだと気づくだろう。かなり荒っぽいことを言うと、クリティカル・シンキングなんてものは、ただの「ツッコミ」ていどの軽い使い方で許される範囲の application だけで済むならば(つまり相手の話に「筋が通っていない」と発言しても路頭に迷わない身分や立場ならば)、学ぶ必要などないのだ。誰でも言えることを結果論としてパターン分類しただけなのである。

クライアント企業の担当者さんも、広告代理店の営業さんも、うちのディレクターも、全員が建前であることを分かっていて、キャンペーンを企画するような状況は、この業界にいれば嫌というほどある。もちろん、そのまま受け流していればよいなどと言いたいわけではないのだが、さりとて逆の極端に振れるのも感心しない。理詰めで相手を追い込むことなど、口先ゲームが大好きな愚か者でなくても、ふつうの知能があれば誰でもできる。いっとき流行ったコールド・リーディングや「豪腕営業マンが教えるなんとかかんとか」といった手練手管は、古今東西を問わず昔から多くの人が実践していることだ。他方、人が全ての事柄を理知的に決めているわけでもなく、筋が通っていようと受け入れられないことだってあるという事情も、古今東西を問わず昔からみんな知っていることである。したがって、いまさら建前だけのロジカル・ゲームで話が解決するかのような幻想を学生やウブなサラリーマンに振りまくようなクリティカル・シンキングや論証の本は、必要ないどころか有害である。そんなものは文学部哲学科の研究室だけで読んでいればよろしい。

・・・と、実社会の訳知り顔した大人が諭すようなことだけを言っていてもいいのか、という気分はある。ポイントは、クリティカル・シンキングも含めて(もちろん、経営コンサルタントのみなさんが大好きなフレームワークも含めて)色々な文脈に布置しうるプロジェクトを、自分の理屈から見て納得できる範囲に収めつつ建前も通すというあたりにあるのだろう。もちろん、クリティカル・シンキングどころかディレクター個人の嗜好や意見すら差し挟まないような滅私奉公が必要な状況もあるだろう。そして、プロジェクトは何度でもあるが、ここで自分が何もしないで何も発言しなかったら、自分にとって大変なことになると思えば、会社だろうとナショナルクライアントだろうと無視して決断すればよいのである。ナショナルクライアントだろうと相手もしょせんはサラリーマンであって、どれほど下らない事情であろうと仕事としてやっている点は変わらない。したがって、クリティカル・シンキングだろうとなんだろうと、或る経過をたどって「ここはこうしなければ」と思ったのであれば、相手も飯を食っているには違いないが、そこで折れたことによる自分の不利益と、そこで折れなかったことによる相手の不利益を考量する他はないだろう。そして、クライアントは大きな企業だから、末端の社員である相手も大きな不利益を被るはずだと自分が思い込んでいるなら、そこにこそクリティカル・シンキングを自分に適用すべきではないだろうか。

とりとめがなくなった。たぶん、言いたいことは単純なのに、「論じ」なくてはならないような体裁で書いているからなのだろう。要は、クリティカル・シンキングの本に羅列されていたり認知バイアスの百科事典みたいなものに羅列されているようなことがらを覚えていくだけでは不十分だということを理解していないと、適切な application がなんであるかを忘れた「ぼくちゃんあたまいい」合戦、あるいは「どっちが抜け目のない、ゴルゴ13ばりの慎重でクールなビジネスパースン(笑)なのか」という、実は低俗な話に終わるだろうということだ。

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