黄金比という参照枠

河本孝之(Takayuki Kawamoto)

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First appeared: 2007-10-21 11:16, 2008-11-04 02:21 (the second essay), 2010-09-26 17:59 (the third essay);
Modified: 2007-11-29 01:42 for the first essay;
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8年前に書いた二つの記事をまとめ直して再掲載します(三つめの記事は要約と些細な注釈です)。大幅に加筆したり修正しているので、元の文章と論旨が変わっている場合は注釈として明記します。(或る意見を、その当時から主張していたかのように見せたいわけではないからです。)

かなり長い記事になっていますが、ここで言いたいことを煎じ詰めると、フィボナッチ数列を使って株式投資したり、黄金比を使ってウェブページをレイアウトしても、それだけで素人が大儲け出来たり、僕らのように電通さんに納品できるウェブページをデザインできるわけではないということです。また、フィボナッチ数列や黄金比に関する知識は、FX で大儲けしたり、プロとしてデザインするための必要条件ですらないとも言えます。

それから、これらの記事の主旨とも関連する注意点を述べておきます。昔の当記事に関して言及しているコメントやブログ記事等を調べなおしてみると、フィボナッチ数列に関する数学を議論していないという批評が幾つかあります。しかし、当記事はフィボナッチ数列や黄金比のもつ数学的な特性を議論することが目的ではなく(数学的な特性は、証明が間違っていない限り議論の余地はありません。それは「そういうもの」としてあるだけです)、黄金比なりフィボナッチ数列を多くの人がどのように扱ったり考えているかを検証することが目的です。もちろん、必要に応じて数論の結果を使えるとは思いますが、必要もなく数式を持ち出す理由はありません。

黄金比という参照枠 I

まず黄金比がどのような比率なのかをWikipedia でご覧ください

お分かりのように、線分を a, b の長さで二つに分割するとき、a : b = b : (a + b) が成り立つように分割したときの比、 a : b が黄金比とされています。そして、確かに数式として他にも「美しい」表し方が幾つかあると紹介されており、「よくは分からないが美しい形には何か数学的な理由がありそうだ」という偏見が植え付けられてゆきます。なぜこれが偏見なのかと言うと、単純明快なことですが、バランスが悪く見える形であっても、バランスの良い形と同様、比率を数学的に表現する自体は不可能であるはずがないからです。簡単な反例を挙げると、1 : √5 は数式としては非常に単純で美しいと言えますが、これを縦横の比率にしてノートや名刺を作っても美しくないかもしれません(1 : √2 だと既に「白銀比」という呼称があるそうな)。一般に、というか数学以前の話ですが、比率が美しくない形であっても長さを測れる限り「 1 : x 」の比にできるのは当たり前であって、小学生でもやれる作業です。数式として表現されているから何か意味があると考えてしまうのは、深層水やイオン水という学名のような呼称がつけられているから効能がある(果ては水が悲しんだり喜んだりする)と考えてしまうのと同様、オカルトだと言わざるを得ません。

黄金比の図

「~比」などという言葉で語られると、逆に「バランスの悪い形は数学的に合理的な比率で表現できないのだろう」、などと何の根拠もなく考えてしまいがちです。黄金比を使ったからどうとかいった説明は、こうした一般人(あるいは一部の工業デザイナー)の数学コンプレックスに根ざした詭弁と言えるかもしれません。実際に黄金比を使ってデザインされた工業製品は、どれをとっても「その比率でなければ美しくない」と言いうる数学的根拠など誰も示せるわけがありませんし、感性の問題としてみても、iPod やタバコの箱がどれほど黄金比でデザインされていると言われても、それだけで工業デザインとして優れている根拠にはなりません。長辺が 5mm や 1cm 違っていても、黄金比などという怪しげな枠組みを持ち出さない限り誰も文句を言わない筈です。もし絶対音感ならぬ「絶対比率感」みたいなものがあって、長辺の長さが 0.5mm でも黄金比からズレると気持ち悪いという人がいるなら別ですが、いずれにしても自然界において正確な実数の長さを測ったり作り出すことはできないわけです。とすれば、長さが少しでも短かったり長かったりすれば「美しくない」と感じる人にとって、物の長さや形状は何を基準に「美しい」とか「美しくない」と判断されているのでしょうか。

ここで、黄金比を真正なる美の基準として擁護したい人であれば、「いやいや、現に黄金比から数ミリメートルほどズレていたがために、消費者の違和感を生じさせて売れ行きが芳しくなかった商品が幾つかあるのです・・・」などと言いたくなるかもしれません。しかし、商品の売れ行きについて、パッケージの縦横の比率が統計的に有意な条件となっているかどうか、どうやって分かるのでしょうか。広告業界でもしばしば言われることですが、一つの要素だけを違えて全く同数の商品を製造し、結果に影響を与える他の要素がないと保証できる方法で分布するように出荷するという単純な A-B テストなど、実はコストがかかりすぎてできません(また、A-B テストについての一般論として言えば、目当てにする属性によって、結果に影響を与える他の要素が何であるかを確定する合理的な指標は実は存在しないかもしれないので、そもそも厳密な A-B テストは原理的に不可能かもしれません)。同じ商品を異なるサイズで(しかもサイズという条件の他は全て同じにして)販売するなどといったことは、パッケージの版下を2組ずつ用意するくらいならともかく、販路に対する出荷のコントロールや、広告に使うパッケージも2種類ずつ用意しなくてはいけないとか、あるいは実際にどちらのサイズがどれだけ売れたかを正確に集計しなくてはならないとか、あまりにも手間がかかりすぎるからです。したがって「縦横が黄金比ではなかったゆえに商品の売れ行きが芳しくなかった」という統計は、既にそのように解釈された統計と言わざるを得ず、実際には他の要因があったかもしれないという可能性をあらかじめ排除した結論である可能性が高いかもしれないのです。

かようにして、黄金比が何らかの合理性や視覚心理の真相に対応している筈だという予断にもとづいて出現する工業製品や珍説・奇説(もちろんここにはプロパガンダという意味合いでの「広告」も含まれます)のたぐいがはびこり、中には「黄金比」と正確には同一でないことから、理想の比率という意味合いで「黄金比率」という苦しい表現でプリンや料理本を発売する人々もいます(当然、その比率は黄金比とは何の関係もなく、更には美味しいかどうか、何らかの生理的な効用があるかどうかを保証する独立した根拠もありません)。そして、彼らがセールストークとして口にするのは、次のような表現になるのでしょう。

あの『ダヴィンチ・コード』のなかでも重要なキーワードとして語られている「黄金比」をコンセプトにしたコレクションで、キャップの長さ(0.618)とキャップを閉めたときのボディ全体の長さ(1.618)に黄金比が用いられています。ボディのねじれは、正五角形の頂点2つ分の144 度。整然としたフォルムは、ビジュアル的な美しさだけでなく、握りやすさも兼ね備えています。

日経BP「ビスコンティの人気万年筆BEST3

上記のページに書かれた長大な解説が、末尾の「握りやすさも兼ね備えています」という表現に対して何の根拠にもなっていないのは明らかですが、素朴な読者であれば、既に黄金比を参照するというだけで何らかの理由があるのだろうと思い込んでしまうかもしれません。もちろん黄金比を参照した理由があるにはあったのでしょうが、それはペンの握り方や重心の位置や握りやすさや疲労度を大がかりに調査したり分析した結果から産まれた商品というよりも、デザイン、営業、広告、決裁権者といった人々の思惑あるいは率直に言ってビスコンティという会社のプロダクトマネジメント能力の低さが産んだ商品と言うべきでしょう。

自然界に黄金比が観察できるとか、あるいは黄金比でデザインすると安定感があるといったオカルトが一部のデザイナーたちにもてはやされる理由は、彼らが無能であるという事情の他に何があるのでしょうか。ものの形の美しさに惹かれる人は多いですし、また数式の美しさに惹かれる研究者は、もちろんアルキメデスからアインシュタイン、そして小川洋子さんの小説に出てくる主人公に至るまでたくさんいました。もちろん本稿は、このような美意識を否定するつもりはありません。x = x という数式は、あまり現実生活の役には立ちませんが、美しいと言えば美しい。そして x = ( x + x ) – ( x – x ) – ( x + x ) + x も、役に立たないどころか無益な煩雑さを増しているばかりではありますが、或る種の美しさは持っていると言えるでしょう。E = mc2 も、式が短いという理由だけで美しいと言えるでしょうし、もう少し込み入った公式などでも、繰り返しや同じアルゴリズムが入れ子になっているといった理由で「美しい」と感じる場合もあります。

しかし数学者が数式に見て取るものは、「黄金比だから美しいのだ」と言って済ませられるような、理屈の単純さだけで語られてよいものではないでしょう。例えば、「自然界にある黄金比」の事例としてしばしば紹介されるオウムガイの殻を見てみましょう。

オウムガイ

この殻の縦横の長さが黄金比になっているという説明は、数学者でさえ口にすることがあります。しかし実際にこの写真で縦横の比率を計ってみると、次のようになります。なお、下記の図を作成するために Y. Tanimura さんの Spiral というソフトウェアを使わせていただきました。

殻の比率

このように、自然界からの無作為なサンプルとして選んだオウムガイの殻に黄金比など反映されていません。この画像の殻だけが特殊なのか(Wikipedia の画像です)どうかは分かりませんが、少なくとも一つの反例があるということは、オウムガイの殻の長さについて黄金比が厳密に当てはまるとは言えないでしょう。また殻の形からも推測できるように、殻を傾けて縦横の比を計り直せば都合の良い比率の近くまで調整できてしまうかもしれません。もちろん、黄金比という比率がオウムガイの殻のサイズについて普遍的に当てはまるとは誰も言っていないのでしょうが、そうであればオウムガイの殻に見られる比率が黄金比になっているとかいないという議論には、もっと正確な言い直しが必要でしょう [注釈 2015: 「科学的に価値がないのではないでしょうか」という元の発言は間違い、あるいは少なくとも不正確なので修正した] 。殻の形成において、発生論的な議論として「黄金比に近づくよう仕込まれている」と言い得る根拠がなければ、上記のような殻の形状は「何らかの外部あるいは内部の条件を満たすように形成された渦巻き」としか言いようがないでしょう。

すると、「黄金比でつくられた形は安定している」と言う人がいれば、実のところそう言っている人が「自分でそう語ることで安心している」だけではないのかと言いたくなります。では、なぜ黄金比を参照すると、一部のデザイナーは「安定している」と考えるのでしょうか(あるいは「安心する」のでしょうか)。まず、まともそうに見えるところから始めてみましょう。『美術科教育学会通信 No.53, 10』(2004) に掲載された「基礎造形教育におけるデッサンの目的と意義 – 絵画作品の幾何学的実証を通して」という文章を見てみます。デッサンの意義がどこにあるのかを問うた文章ですが、その研究方法として、

具体的には,デッサンの訓練や修練を通して,美の本質の一つとして均衡・調和の感覚が養われるという理論的仮説を立て,科学的とくに幾何学的手法を用いることによって,その検証を試みたのである。画家の磨かれた感性による作画は,西洋で科学的に追究されてきた,美的な一つの基準としての黄金比を充足する。その証明をもって,人間が有している造形的な感性を磨くという意味を問うた。

蝦名敦子「基礎造形教育におけるデッサンの目的と意義 – 絵画作品の幾何学的実証を通して」基盤研究(C)

と語られています。皮肉な言い方をすれば、学生が修練して「均衡・調和の感覚が養われる」というのは、独りでに黄金比という基準を身につけることなのか、それとも黄金比という最終地点で待ちかまえる美術教師に向かってレールの上を走っているに過ぎないのでしょうか。もちろん、著者はかような批判を予測していて、次のように応えています。

最初に黄金比を使って構図をとるとの意味でそれを適用したのではなく,あくまでも主眼は,画家の錬磨された一点一画には,そのような規範を充足する美的なバランス感覚が内包されている,ということの証明にあった。そうであればこそ,そのような感性を磨くこと自体がデッサンの目的となり,またそこに意義があるとした。そうした修練,研鑽は尊い行為ではないだろうか。それが今日軽んじられていると感じてならない。

蝦名, ibid.

では、先人達が黄金比を既に参照枠(「権威」と言ってもよい)として既に知っていて作品に反映し世に送ったという事実から、黄金比という参照枠が美の根幹であり学生の模範であるという帰結に至るのでしょうか。芸術作品のどれもこれもが黄金比を使って造形したり構図を取っているわけでもないと言われているのですから、たまたま黄金比を使って作品をつくった「あの人に学ぼう」という話にすぎないのではないかとも思えます。

とは言っても、教材として好き勝手な矩形を描かせるよりも、黄金比になっている矩形を正確に描かせる方がデッサンの正確さや構図のバランスを測るために有効であるという理屈は成り立ちます。また、ごく主観的だと言われがちな美的判断にも単純な規則性が関わっているという理屈も、それなりに説得力があります。しかし、結局は誰も「なぜ黄金比だと『美しい』と感じるのか?」という問いに答えてはいないのです。たいていの人は、「美しい黄金比を使って・・・」といった、論点先取の表現しかできていないのが現状でしょう。もう少しまともな人であっても、せいぜい昔から色々な芸術作品に反映されてきたという結果論に終わるか、数学的表現を添えて「美しい」と述べるのが精一杯なのかもしれません。

王義之の書も黄金比に従っているのか?

「身の回りにある『美しい』(ここで既に論点先取になっている)ものには黄金比が使われている」という表現を使わずに、どうやって黄金比という単なる数学的性質と美とを結びつけられるのか。その道筋は、黄金比やその数式表現ほど単純で美しいとは限りません。ここでまた事例を挙げてみましょう。"Phi 1.618: The Golden Ratio" というサイトで紹介されていた、PhiBar というソフトウェアを使ってみました。これはカラーピッカーの一種と言っても良く、二つの色 A, B を選ぶと、C の色は A, B, C の色相が黄金比になるよう調整されます。このソフトを使って幾つかのカラースキームを作ってみたら、下のようになりました。

黄金比のカラースキーム

さて、デザインがカラースキームという一つの要素だけを成果としていない以上、他の要素も加味しなければ良し悪しを判断できないというのは自明なので、上記のカラースキームについて良し悪しを言える根拠はありません。それは同時に、黄金比でつくられたカラースキーム「だから」どうだと言えないことと同値です。したがって、このようなカラーピッカーは他の比率で三つの色を提案するツールと同等の意味合いしかもちません。もちろん、多くのデザイナーにしてみれば、カラーピッカーは飽くまでもインスピレーションを得るための足がかりに過ぎず、カラーピッカーが提案したスキームをそのまま何も考えずに使う人など(少なくともプロを名乗る以上は)いないでありましょう。しかし、カラーピッカーが提案したとおりのカラースキームとは別の配色がよいと考える正当な理由を考えられない凡百の素人あるいは無能なデザイナーにとっては、黄金比のような参照枠に頼らざるをえないのかもしれません。黄金比を使ったデザインというものは、実際のところ思考停止の言い訳として参照されているに過ぎないと言いたくなるのですが、どうなのでしょうか。

このように見てくると、「『美しいもの』には黄金比が見て取れる」とか「これこれが美しいのは黄金比に従っているからだ」といった論法には、どこか天下りの論点先取が見受けられます。他の例として、『美の構成学』(中公新書)という著書で三井秀樹さんが展開されている説明を拾ってみましょう。

1:1 の関係は左右対称であり、シンメトリーとよばれているが、このバランスは安定して動きのない静止したイメージを与え、むしろ威圧的ですらある。宗教的な儀式、祭壇や教会などの配置はすべてシンメトリーであり、これが調和の本質と考えられてきた。

現代デザインでは静止したイメージより動きや変化のある黄金分割のほうがビビッドな感覚があり圧倒的に好まれている。つまり大と小のバランスがとれ、部分が全体に対して均衡がとれているほうが結果として美的な快感を感じるのである。

[...]

また、黄金分割のほかに古くから理想的な比例法として現在でもよく使われているものにルート矩形がある。この矩形ではたて・よこの比率が 1:√2の関係にあり、数値であらわすと 1:1.414… となる。

三井秀樹『美の構成学 バウハウスからフラクタルまで』,中央公論新社(中公新書), 1996, pp.91-94.

この説明からは、黄金比によるデザインが「圧倒的に好まれている」のは、単なる流行り廃りか、あるいは歴史的な趨勢であるように見えます。1:1 であろうと、黄金比であろうと、ルート矩形であろうと、それぞれ古くからデザインの参照枠として用いられてきたので、何か人間の生理的な根拠からして他の比率よりも圧倒的に優位となる事実がない限り、いま黄金比がもてはやされている理由は歴史的な偶然と言う他はありません。ありていに言って、みなさんがどういうわけか「ビビッドな感覚」をたまたま好み、そして黄金比がどういうわけか「動きや変化のある」比率だと理解されているという条件があってこそ、黄金比によるデザインがどういうわけか「美しい」と見做されるわけです。

黄金比そのものに美の本質があるわけでもない以上、黄金比をデザインの参照枠としてスケールの基準に用いることは、そのデザインが「何か深遠な点において絶対的に美の性質をもつ」ためどころか、「美しく(他人に)感じられ」たり、「(本人が)美しいと感じる」ための必要条件ですらないと言いうる可能性が残ります。黄金比のもつ数学的な性質は、美のいかなる性質とも論理的に必然だと言いうる関係をもたないと言ってもよいでしょう。逆に分かりやすく言うと、或るデザインを美しくするために黄金比を用いるかどうかは単なる趣味の問題であって、そこには黄金比を用いなければデザインが本質的に損なわれると言いうる強い根拠は立てられないということでもあります。

三井さんの著書においても、黄金比を持ち込むための正当化として、これまで見てきた説明と同じような循環論法が展開されています。つまり、

いったい黄金比の 1:1.618 の比のとき、なぜ美しくみえるのだろうか。この問いに関していままであまり明確な答えは返ってこなかったように思う。[...]

[...] 今世紀になってダーシー・トムソンら生物学者によって巻貝の渦巻やヒマワリの種の配列、サボテンの刺の配列など、動植物のきれいに見える配列がフィボナッチ級数という数理性に準拠していることがわかったのである。

つまり黄金比の A:B は巻貝の大きくなっていく比率と一致し、その螺旋形が美しいように、黄金比も安定した大と小の美しい比率となっているのである。

三井秀樹『美の構成学 バウハウスからフラクタルまで』,中央公論新社(中公新書), 1996, pp.94-95.

もちろん、急いで注釈しておくと、三井さんはこの後の段落で「形式原理ゆえに、その使用を誤ると、美しさとは無縁の造形をつくることになりかねない。黄金分割を使っているから美しいはずだという全面的に形式原理にゆだねられた美術品や建築が西欧に過去どれほど多かったことか。[...] 形式原理はあくまで限られた条件下での美の原則であって、造形する際の目安にすぎず、造形美をつくり出す必要十分条件でないことを忘れてはならない」(三井, ibid, p.97f.)と書かれており、黄金比を使うと美しく見えることがあっても、黄金比を使うからこそ美しいわけではないという主旨の適切なコメントを付けておられます。しかし、前段の説明は黄金比が「美しい」という前提に立った結果論であって、黄金比が造形の比率として「美しい」と感じられる理由をぜんぜん説明してはいないと言えるでしょう。

芸術作品、あるいは工業デザインでも構いませんが、黄金比に従ったと喧伝されているものについて強く感じる他の疑問もあります。それは、「では、なぜありとあらゆる比率を黄金比にしないのか?」というものです。例えばタバコの箱を黄金比でデザインしたと言うなら、黄金比に従ったロゴマーク、黄金比に従ったカラースキーム、そして黄金比に従って新・古紙を混ぜたパルプ、あるいはタールとニコチンの比率を黄金比になるようにまで、どうして徹底しないのか? 御利益があろうとなかろうと、無能な人間がオカルトにすがることは一時の恥として許容されるでしょう。このように考えると、もちろん僕も「黄金比の矩形はそれなりに整っていて落ち着いた形に見える」という点には同意できるので(笑)、目に見える長さなどの比率についてはそれなりに理屈があるのかもしれないという点を否定するつもりはありません。これまでの僕の議論は、「きちんと納得のゆく根拠を誰も示していない」という反知性主義とも言うべき現状について疑問を呈しているのであって、「黄金比には、参照枠として用いられるべき正当な理由が原理的に存在しない」と言っているわけではありません。黄金比と私たちの視覚イメージに何らかの結びつきがあっても、それを正確に説明したり理解しようとしないまま「黄金比に従っている」と吹聴して回っているだけでは、上記で述べたような誤用や濫用かもしれない事例がいくらでも増えることになります。そしてついには、「この商品を販売するに当たって、どうして東日本の営業担当者数と西日本の営業担当者数を 1 : 1.618 の比率で配属させないのか」という、占星術も顔負けのオカルトにならざるを得ないのです。

ここまで書いてきて、やはりこの記事にも循環しているところがあるかもしれません。また、事実であるべき発生論的な説明に規範的な説明(ベキ論)を忍び込ませているところがあるような気がします。たとえば Tumblr で見かけた本稿に対するコメントとして、「黄金比だから美しい、のではなくて、美しいと私たちが感じるものの多くが黄金比の造形になっているということだと」いうのに、上記の記事では初手から間違っているとコメントされています。もしかすると、本稿の議論の混乱した点を指摘するコメントなのかもしれませんが、僕としては論評の順番に間違いがあるとは思えないので、いまのところは初手も何も修正する必要を感じていません(黄金比を導入する間違った事例から論評を始めることが「初手からおかしい」などというコメントは、何を言いたいのか理解不能です)。[注釈 2015: 冒頭にも述べたように] ともかく本稿では「黄金比だから美しい」とか「黄金比などデタラメだ」とは主張していません。

美しいとかそうでないといった判断が偶然的でないとすれば、ヒトにそう認知させる形状の根拠があるのでしょう。その一つが黄金比だという理屈であれば、それはそれで筋が通ります。また、美しいとかそうでないといった判断が偶然的だとすれば(歴史的あるいは「文化的」と言って良いかどうかわかりませんが)、これまで或る地域に生きていて何らかの条件を満たした多くの人がそう認知してきたという根拠がどこかにあるのでしょう。その場合は根拠が形状にあるという保証はなく、それは広告の視覚的な演出や権威からの圧力といった心理的なものかもしれません。したがって、「美しいと私たちが感じるものの多くが黄金比の造形になっている」と主張する理由を、「実際に黄金比でつくられたものの多くが美しい」と言うのでは、循環論法になってしまいます。なぜなら、黄金比にもとづいて何かの作品をつくった人たち自身が「黄金比でつくられたものを美しいと感じていた」のかもしれないからです。もし過去に芸術作品をつくった人たちすべてが、知らぬまに黄金比に従って構成を練り上げたというのであればともかく、大多数の人々はそうではないでしょう。しかし難しいのは、そういう実績を残すこととなった事情が当時の権威や好みなのか、それとも生理学的・認知的な条件なのかという点を明確に説明している人が殆どいないということです。それにもかかわらず「黄金比を使いましょう」などと言っているのは、歴史や科学に対する盲信あるいは無知と呼ぶべきでしょう。

このような次第で、言葉遊びにならないよう気を付けて整理し直さなければ、メタ哲学において伝統的な話題となってきた、認識論と存在論のどちらが優先するかという堂々巡りをここでも繰り返すことになります。そのため、ここで言っていないことをはっきりさせておきます。まず、上記の中で「根拠がない」と述べている箇所があると思いますが、そこでは「黄金比には、何らかの設計の指標として採用できる根拠が何もない」と言っているわけではありません。そうではなく、「黄金比になっている~」とか「黄金比を取り入れた~」という天下り式の表現を使い続けるだけでは、黄金比という参照枠を裏書きする議論が全くできていないと言っているのです。数学であれ認知科学であれ歴史学であれ「では、なぜそうした構成の形状を美しいと判断するのか」という点から黄金比を取り扱わない限り、どのような議論であっても、とどのつまり「黄金比を取り入れているこれこれが美しいのは、これこれが美しい黄金比を取り入れているからだ」という循環論法を回りくどく言っているだけにしかなりません。

また、人のやることや自然のなすことが数学的な規則性と厳密に合致していないという指摘をしましたが、もちろんそこでは数学的に厳密な比率でなければ美しくないといった議論をしてはいません。オウムガイの殻の比率が黄金比になっていないという指摘は、「それゆえ自然界に黄金比などない」という結論を導くための議論ではありません。もともと自然は、人間の営為にすぎない数学や物理が理屈としてどうなっていようと無関係ですし、数学や人間が宇宙に存在していようといなかろうと自然は自然のままあり続けます。ここでも同じ論点に行き着きます。つまり、自然について黄金比を近似あるいはモデルとして使えるかどうかだけでなく、なぜオウムガイの殻やパルテノン神殿の縦横比率ばかり問題にするのかと問うてみて、黄金比という参照枠を議論に引っ張り出してくるメンタリティを反省してみてもよいだろうと言いたかったのです。そうしなければ、ここでもやはり数学的な根拠の話をしているようでいて、実は幾つもある規則性の中から勝手に選んだ一つの規則性を美の基準として天下り式に語っているにすぎなくなります。

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黄金比という参照枠 II

前回の記事に引き続いて、もういちど黄金比を検討してみます。他の記事とは違って、論評の仕方が緩やかになっていたので、論点が分かりにくかったり回りくどかったところも見直してみました。

前回の記事 [注釈 2015: 上記の内容のことです。「前回」と書いているだけの場合もあります] で述べたかったポイントを繰り返します。「黄金比は美しい構成をもたらす」という主張は、そのような規則性を導入した造形物の解釈や評価について論点先取を犯しがちである、ということです。

最も酷くて悲惨な論点先取は、もちろん何の根拠も示さずに「黄金比を使っているからこそ美しい」というものです。商業的な理由はどうであれ、こうした意見を躊躇なく口にする芸術家やアートディレクターは、三流の誹りを免れないでありましょう。ただし前回も保留したように、黄金比を用いて有効となる条件はどこかにあるのかもしれません。それゆえ、現実に我々の元へ残されている芸術作品が黄金比を参照枠として有効に利用した実例なのだという理由で、本稿のような疑義を一笑に付する方も多いと思います。詳しい理屈は分からなくても自明だ、というわけです。

しかしそこには、第二の論点先取、つまり「その作品は、黄金比を導入する以外の基準によっては、デザインとして成立し得なかった」という、殆ど根拠のない前提があるように思われます。「巨匠 A の B という作品は、黄金比を用いて構図をつくったから素晴らしい」と素人が口にするのは勝手ですが(既に「巨匠」という表現でバイアスがかかっています)、少なくとも「B という作品は、黄金比の他に何らかの基準を使えば更によくなったのではないか」と推測してみる努力が、美学や芸術学に携わる者には必要でしょう。もう少しはっきり言えば、「黄金比に従ったからこそ、この作品は不十分なのだ」と言える人が全くいないなら、美学や芸術学はアート商人や骨董屋の裏書きとなる理屈を、数学を借りてあれこれひねくり出しているにすぎないと言えるでしょう。

したがって前回から一貫している主張としては次のようになります。黄金比というものは往々にして、批判的な観点(自己批評も含む)をもたないデザインや、工業デザインの名を騙る思考停止の言い訳として使われているのではないか。そして今回は、先の記事で誤解を招く恐れがある点(そして実際に誤解され不平不満を書かれた点)を整理しながら、議論をもう少し正確にしてゆきたいと思います。前回の所論と違う点があるかもしれませんが、異同は機会を分けて検討します。

議論の整理 (1): 芸術と科学は無関係ではない

前節のように述べるとたちどころに誤解を招きやすいのですが、僕は芸術や美術が、科学やテクノロジーと無関係であるとか、無関係であるべきだなどとは主張していません。

前者については、デザインの歴史を調べる手間を惜しまなければ、古代から現代に至るまで科学・技術と芸術・美術がお互いに他方へ影響を及ぼしていたことが分かるでしょう。またそのような自覚があればこそ、多くの芸術家たちは各自の時代において自らが置かれているテクノロジーの制約から離れて、自分たちのもっている着想を表現したいとも思ってきたはずです。ちょうど、Photoshop や Maya がインストールされた環境でしかものを作れない人はオペレータであってアーティストではないと考える人がいるのと同じ事です。あるいは明白な事例として、コンピュータ・グラフィックスや映像学はコンピュータやカメラがなくては成立しないという点を思い出すだけでよいかもしれません。そして、一流のグラフィック・デザイナーやフォトグラファーは、自分たちの使っているテクノロジーが課している制約を居心地のよい隠れ場所としか認識していないような、単なるツールオタクではないのです。

そして後者については、もちろん A という人が Illustrator など使わずに手で描いていたならば更によかっただろうと言える着想はあるかもしれませんし、もしピカソや葛飾北斎が MacBook Pro を持ち歩いていたら酷い CG しか生み出さなかったかもしれないなどと想像はできるのかもしれません。しかし、科学技術が(学問としてではなく一人のアーティストの身体において)芸術的なセンスや才能と無関係でなければならないという主張は、殆ど論証不能と言ってよいでしょう。つまり、ここで取り上げる黄金比は主に数学とデザインの話題として交差するポイントになっていますが、それを「センチメンタリストの数学者」や「数学コンプレックスのデザイナー」が述べているたわごとだと、にわかに決めつける理由はありません。実際、前節では「黄金比を利用した芸術作品やデザインを、その一点だけで最善の手法だと言える根拠はない」と述べましたが、だからと言って黄金比を使わない方がよかったと断定する権利は、恐らく誰にもないでしょう。

理論の話として、

B という作品がしかじかのテクノロジーに制約されていたり、B の作者 A がこれこれの技巧や機械装置に依存していなければ、B は「もっとよい」作品になっていたであろう。

と述べることは可能です。つまり、或る映像作家を取り上げて「彼がもし手持ちの使い捨てカメラではなく、仕事で使っているニコンのしかじかを使って撮影していたなら、あのショッキングな場面はもっとよい写真に撮れていただろう」と述べたり、或る過去の絵師を取り上げて「もし彼女が当時のテクノロジーに制約されず、これこれの画材を使っていたならば、もっとよい作品を描けただろう」と述べることは可能かもしれません。理屈としては B という作品のあらゆる必要条件から組み合わせたパターンの数だけ異なる結果に至るかもしれないので、想像の余地はたくさんあるでしょう。しかし、それが何だというのでしょうか。

議論の整理 (2): 黄金比の適用は「法則」などではない

僕は芸術やデザインに携わる人々がみんな黄金比を使いこなしているとか、黄金比を簡単に反映させるような Photoshop のプラグインは彼ら彼女らの必携ツールであるなどと思ってはいません(このような言い方は事実に反しているどころか、人によっては侮辱となるはずです)。また、これも前回の議論で述べたように、黄金比をあらゆる構成に適用すれば、それで何かがたちどころに改善されたり向上するわけではないし、黄金比を取り入れたからといって、あなたの仕事が納品レベルの品質になるわけでもないのです。それでも、デザインの教育を受けたかデザイナーを名乗る人間であれば誰でも知っている筈の黄金比を、デザイナー向けに紹介してしまう恥知らずなウェブページが山のように存在しているのはなぜなのでしょうか。単に、中学生が2時間ほど前に知った豆知識を嬉しがってブログに書いているだけの話であれば、誰もそのような些事について批評を書く必要は感じないでしょう。

黄金比が便利な「ハック」(外来語になると下品な語感を覚えるのはなぜだろう?)として、アマチュアデザイナーから素人デザイナーに紹介され続けているとしても、特にウェブサイト制作の場合は(僕自身を含めて)正式なデザインの教育を受けていない人の方が多いので仕方のないことでしょう。しかし何かをデザインするにあたり、その基準なり方針として黄金比を他人へ紹介するのであれば、少なくともプロを名乗っているデザイナーや、他人にものを教えている教育機関の講師、あるいは著述を生業としている者であれば(どこにでも適用できるわけではないと分かっていても)、どういう条件で適用できるのかという一定の指標は示してしかるべきではないかと言えます。そうでなければ、「こんな便利なものがあるよ。詳しくは本を買ったり、○○専門学校に入って授業を聞いてね」というただの宣伝と変わらないですし、せいぜいが知ったかぶりでしかありません。

ここで一つの事例を紹介してみましょう。RingLing 芸術デザインカレッジのグラフィック+インタラクティブ・コミュニケーション学部を率いているエレン・ラプトン(Ellen Lupton)さんが書いた thinking with type: a critical guide for designers, writers, editors, and students (Princeton Architectural Press, 2004) というタイポグラフィの本に、黄金比の話が出てきます。

黄金分割について考察せずに終わるタイポグラフィの本など、おそらくどこにもないだろう。黄金分割とは比(二つの数どうしにある関係)のことであり、西洋の美術と建築では 2,000 年以上も使われている。黄金分割を数式として書けば、a : b = b : ( a + b ) となる。[ 訳註/次の段落は単に数式をかみ砕いているだけなので省略 ]

黄金分割の虜になって、グリッドやページフォーマットを作るために黄金分割を利用しているグラフィックデザイナーもいる。なるほど、あらゆるタイポグラフィの書物は黄金分割を取り上げてきたのだから。だが他のデザイナーたちは、黄金分割はサイズや比率を導き出すための根拠として、他の方法に比べると妥当ではなくなったと考えている。[...]

Ellen Lupton, thinking with type, p.138.

もちろん、現代のデザインを教える教育機関ではもっと他にもたくさんの構成手法を教えていますから、アマチュアの講師やデザイナーが殴り書きするような不作法はないでしょう。しかし、理屈として「なぜ黄金比になっているのか」という事実確認(描いたり造形した本人が自覚してやったことなのかどうか)や、「なぜ黄金比を取り入れようとしたのか」という解釈を丁寧に教えているかどうかは分かりません。しかし、上記で紹介したラプトンさんの著作は、"Elam combats this in Grid Systems by examining and using the grid within the context of other design basics: proportion, grouping, positive/negative space, edges, and thirds" と書評で書かれているように、わざと黄金分割を使わずにグリッドを取り扱っています(引用文で "this" と書かれているのは、"The grid and especially the golden section contains a degree of mystery for students who are eager to learn design fundamentals"、つまりグリッドを学ぶときに黄金分割をはじめとして難しい点があるので、これを明快に説明したいと思ったのでしょう)。そして、これは黄金分割に対する反証ではなく、グリッドの引き方を考察するために、三分割法やコンテンツのグループ、あるいは余白(ネガティブ)グループといった、他の参照枠と共に具体例を考察しているのです。このような著作から言えるように、およそ「デザイン」や「芸術」と名の付く仕事をしている人たちは、少なくとも黄金分割を使った解釈を判で押したようにダラダラと続けるだけではなく、他の方法も使って解釈してみる努力が必要だと言えるでしょう。

以上の議論から分かるように、巨匠と呼ばれる人々の芸術作品から、ウェブ制作プロダクションが制作したページにいたるまで、黄金比を構成に取り入れたり、黄金分割をグリッドシステムに導入すること(そして導入しないこと)と、それらの評価(ビジュアルだけでなくビジネス上の評価も含む)には、「法則」の名に値するほどの強くて有意な関連はありません。そしてとりわけ重要なことですが、ウェブページのグリッドシステムは、単なる審美的な良し悪しだけではなく、どのコンテンツをプッシュまたはプルコンテンツとして重視するかとか、どのような導線を狙って要素を配置するかというビジネスライクな目的を完遂しなければ、ただの「作品」であって、あれこれの何とかアワードを受賞できても、本来のビジネス目標から言えばクソの役にも立ちません(もっとも、クライアントの KPI よりも受賞歴の方が大事だという人々もいるわけですが)。

はっきり言えば、黄金比に限らず、レイアウトやグリッドシステムについて出来合いの参照枠をあれこれ試して悩んでいる暇があるくらいなら、特にウェブサイト構築のディレクターやデザイナーにはもっと優先すべき業務がある筈です。ビジネス目標やプレゼンテーションロジックを決めずに [注釈 2015: 「プレゼンテーションロジック」とは企画書の筋書のことではなく、最近の言い方では UX に当たります]、レイアウトやグリッドをどれだけいじくり回していても、デザインに関わるタスクなど適正には進められないのです。逆に言えば、ビジネス上のロジックから常識的な道筋で落とし込んだ変哲のないレイアウトやグリッドで十分なのであり(プレゼンテーションロジックに、それら平凡なグリッドを否定するような目標が含まれていないかぎり)、黄金分割であろうとなかろうとそれなりに要件定義が満たされるなら、誰にも反対すべき理由などないでしょう。

議論の整理 (3): 黄金比を使うなと言っていない

他のブログを見ていると、黄金比について何らかの異議を差し挟む主張に加えられているコメントとして、非常にエキセントリックでヒステリーとも思える叫びだとか、堅苦しいことはやめようぜといったチンピラ営業マンの恫喝みたいなものが見受けられます。政治・経済・タレントに関するブログでは、こうしたお花畑で生きている人だとか、「払い下げの相対主義」を強要するファシストのたぐいはお馴染みですが、デザインでも無軌道にアツい人々はたくさんいるようで、前回の記事を公開した際も、幾つかの頭に血が上ったコメントを hatena で見受けました。そこで、あらかじめこのサイトの論調に慣れていただくために、敢えて過去に取り上げたテーマをもういちど引っ張り出して、こうしてだらだらと回りくどい議論をしているわけです。こうした怒り狂う人々が勝手にシャドウ・ボクシングをしている相手は、「黄金比など無意味だ」とか「自然に神秘などない」といった、彼ら彼女らからすればビジネスライクで分かり切ったようなものの言い方をする人なのでしょう。そして、誰が頭に来ようと僕自身が馬鹿げていると感じた理屈は検討すべきだと思うので、黄金比が無意味であるとは思いませんが、例えば自然に神秘があるかどうかは検討の余地があるだろうと言えます(とは言え、残念ながら、大抵は神秘やロマンを語る人たち自身の心理的な投射でしかないとは思いますが)。

僕は「黄金比を使うのは愚かなことだ」と述べていません。その状況で相応しいと判断すれば、プロとしての責任で使えばよいでしょう。それはタイプフェイスの選択だろうと、カラースキームの組み合わせ方だろうと、同じ事です。そこで、SmashingMagazine というサイトで紹介されていたグリッドベースのページデザインを幾つか取り上げてみます。

グリッドの切り方はそれぞれのサイトで異なりますが、カラムの通し方は黄金分割になっているパターンがあります。そしてこれらのグリッドを切っている人々が、黄金分割を意図しているにせよ、いないにせよ、これらのグリッドは各自の方針で採用されたものなので、にわかに意味がないなどとは主張しません。しかし前節でも述べたとおり、そこに何らかのロジックがなければ、せいぜい「社会人としての妥協の産物だ」と善意に解釈するか、あるいはただの思考停止だとしか言えないでしょう。

つまり黄金分割に限った話ではなく、グリッドやレイアウトを構成する際に、黄金分割だの3分法だのといった出来合いの道具立てなり参照枠を持ち出す前に、あなたたちは本当にデザイン上の要件を定義しているのかという話をしたいわけです。そして、前節でも述べましたが、その要件から導き出された(少なくとも限られた条件の中で自分たちが良かれと判断した)グリッドやレイアウトの構成に黄金分割を使うなら、堂々と使えばよろしいということなのです。

まとめ

今回もかなり長くなりましたが、要約すると、黄金比という特性(あるいは黄金分割を採用してきた歴史)に従うとしても、闇雲に従うのではなく、それぞれ個別に理由が必要なのです。もちろん、これまでの膨大な適用事例は参考にするべきであって無視してはいけないのですが、「歴史」という大づかみの言葉で自分たちの思考停止を正当化できるほど、建築や絵画等の歴史は単調でも単純でもありません(そしてこれは、いやしくも人間の営みにかかわる歴史なら何であれ言えることでしょう)。

従って、「ウェブページのデザインに困ったときは黄金比や白銀比を・・・」といったご丁寧なアドバイスを申し出ているサイトはたくさんあるのですが、本当にこれらのページを書いている人々が、ページデザインの前に(少なくともプロとしての)デザイナーがやるべきことをきちんと押さえて指摘しているかどうかは、非常に疑わしいと思っています。前節でご覧いただいた UXMagazine のサイトでお分かりのように、カラムの通し方として等間隔の分割が要求されているなら、黄金分割の話を持ち出してみたところで、その要求を覆す力が黄金分割の「美しさ」なるものにあるのかどうかは疑わしいと言えます(そして実際に、カラムを黄金比に従って通してみたところで、それがページデザインの目標に照らして「もっとよい分割のやり方である」と言える根拠はどこにもありません)。

最後に一つだけ余談としてご紹介しておきます。さきごろ出版された『欧文書体2』(小林章/著, 美術出版社, 2008)で、タイプフェイス・デザイナーのアドリアン・フルティガー氏に小林章氏がアプローチしたインタビューが掲載されています。その中で、フルティガー氏はかつて教えを受けた人物の所論に理解できない点があり、それは書体のプロポーションの分析に黄金比を当てはめることだったと述べています(p.114)。もちろん、あからさまに意図して黄金比を用いた構成であれば、黄金比を使って分析できるのは自明です。しかし、単に「美しい」というだけで、それがどこかで黄金比に従っているのだろうと、デザイン上はどうでもよい長さどうしを比べて黄金比を「発見する」といった作業は、その殆どが徒労でしかありません。小林氏とフルティガー氏の所見としては、手で文字を書いたときの手の動きや傾きといった条件で分析する方が適切であって、「黄金比とかは関係ない」とまで言われています。

もちろん、そうした手の動きや傾きのどこかに条件として適切なところがあって、実はそういう点にこそ黄金比が反映されているのだという、認知科学やアフォーダンスの知見を利用した分析を排除したいとは思っていません(更に、どうも僕には黄金比の話がキリスト教とどこかで通じているように思えるわけですが、それはまた別の議論にします)。そして、黄金比や自然科学にロマンだの神秘だのといったレッテルを貼って喜んでいる人々も、自然の神秘を手持ちの道具(それは黄金比でもよいし、小川洋子さんの小説でもいいわけですが)だけで理解できると信じたいのかもしれません。しかし、プロのデザイナーはそれでは困ります。自分たちの数学コンプレックスを解消するために、自然の複雑な規則性を自ら支配しているかのごとき神のような高揚感を得たいだけなら、自分たちが何のためにデザインするのか、もういちどよく再考すべきです。

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